*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

84【最終話】

「波多野……涼さん」

 涼、と口にした刹那、息が止まった。心臓がどくんどくんと何度も大きく跳ねる。

 椎奈の声に、波多野も眉間に皺を寄せた。記憶をたぐりよせるように椎奈を見る。

「お前の名前は」

 思わずムッとした。椎奈は男にお前と呼ばれることが好きではない。

「大野椎奈です」

 少し投げやりに答えた。敬語で返す自分がバカらしくなってくる。 

「大野椎奈」

 波多野はそんな椎奈の様子に気づかないまま、何度も「おおのしいな」と小さな声で繰り返していた。

「もしかしてどっかで会ったことあるか」

「ない!絶対ない!」

 あなたみたいな美しい人に会ったことを忘れるわけがありません、とつけ加えそうになって、まるで天王寺が言いそうな台詞だと慌てて飲み込んだ。

「そんな全力で否定しなくても。でもまあ、そうだよな。その声に名前を呼ばれたことがある気がしたけど、気のせいだよな」

 なんだか変な気分だった。心臓のリズムがおかしい。胸がつまって息苦しい。

 感じ悪くて何度も腹が立つのに、それ以上になぜか嬉しい。時々見せる表情に思わず吸いこまれそうになって胸がときめくのに、同時にどうしようもなく泣きたくなる。

 何なんだろう。おかしい。

 ふと会話が途切れ、波多野は椎奈から視線を外した。椎奈も足下を見る。

 お互い、帰ろうとはしない。別にもう用はないのに、立ち上がらない。

「例えば……」

 言いかけてすぐにやめて、波多野は髪に手を突っ込むと、乱暴にかきむしった。

「いや、帰るわ」

 そう言って立ち上がる。

 帰っちゃうのか、と残念に思って見上げると、波多野はそんな椎奈を見てなぜかまた腰を下ろした。

「例えば……具体的にどこが面白くなかったのか聞こうと思ったんだけど、別に興味ねぇって気付いた、から、帰るわ」

 しどろもどろになりながら弁解する男が滑稽で思わず笑う。

 帰ると言いつつ、波多野は一向に立ち上がらない。

 ぎこちない空気をまとわせて、足の上に肘をついて、指の骨をパキッと何度も鳴らしている。

「私、すごく怒ってるんです」

 ふいにそう言うと、男は怪訝そうに椎奈を見た。

「1800円も払ったのにすっごくつまらなかったから、時間もお金も無駄にしたなって、すごく腹が立ってるんです。絶対に誰かにこの怒りを聞いて欲しいと思っていて。でも、見た人にしかこの怒りはわからないと思いません?」

 そう、だな、と波多野は言う。

 この後お時間ありますか?と言いかけて、やめた。

 椎奈を見つめる男の顔が、映画のことでもなく、椎奈の言葉の内容でもなく、何か別のことを考えているように見えたからだ。

 見つめ返す椎奈も、だんだん一つのことしか考えられなくなっていく。

 一緒にいたい。

 もっと一緒にいたい。

 その時突然劇場の扉が開いて、若いスタジャン姿の男が出てきた。男は大きなヘッドホンを装着し、左右を一回ずつ確認した後、まっすぐに出口に向かって行った。

 二人で後ろ姿を目で追う。

「面白くなかったんだね」

 椎奈がつぶやくと、そうだな、と波多野が笑った。

「なんか飲みてぇな」

 立ち上がって波多野が言う。

「私も、喉かわいた」

「どこ行く?」

 一緒に行くのが当たり前みたいな調子で問いかけられ、椎奈はすぐにバッグからスマートフォンを取り出した。

「このカフェが気になってて」 

「じゃあ、行くか」

 画面を示して言うと、波多野はすぐに歩き出した。そして振り向くと

「おい、俺じゃ場所わかんねぇんだから、早く案内しろよ」

 と顎で早く来いと催促した。

 なんて偉そうなんだろう。態度も悪すぎる。自分勝手だし、お前って呼ぶし、見下ろしてくるし……

 気づいたら目に涙が浮かんでいて慌てた。今日の自分は一体どうしてしまったんだろう。情緒が不安定すぎてあきれる。アイラインがにじまないように指でそっと涙をぬぐい取った。

 メイクを直したいと思ったけれど、そんな少しの時間すら惜しく思えて、偉そうに目を細めて自分を待つ男の隣に駆け寄った。

「波多野さんはどの役をやるはずだったの?」

「しょうもねえ端役だよ。目の下にほくろがある侍がいただろ。あれの腹心で……」

「ああ。あの白い着物の……殺陣が下手でちょっと浮いてた人の役?」

「ははっ。そうなんだよ。俺、殺陣には自信があったんだけどな」

「見たかったな。あの白い着物も波多野さんの方が似合う気がする」

 波多野はふんと笑って、隣を歩く椎奈を見下ろした。そして「だろうな」と低い声で言った。

 椎奈は侍姿の波多野を思い浮かべた。本当によく似合うだろうと思った。すらりと背が高くて姿勢がいい。白い着流しに濃紺の帯を締めて、脇には二本の刀。無造作に結い上げた髪からは細い毛束がいくつか下がって、美しい顔にかかっている。そこからのぞく切れ長の目は壮絶な色気を放って、見る者の目をくぎ付けにするだろう。

 椎奈の頭の中の侍が、唇の端を上げて意地悪そうに笑った。こちらに伸ばされた左手にはなぜか袖がなくて、椎奈は右隣を歩く男にもう少しだけ寄り添った。

 

 

 

                                    〈了〉

 

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