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チケットを購入し劇場に入ると、最終日だということを差し引いてもあまりにも閑散としていた。百人ほど収容できる劇場に、客は椎奈を含めて五人しかいない。椎奈は劇場右手の一番後ろの席に腰を下ろした。
この映画がもう、目も当てられない内容だった。
主役の侍七人は、やたらと顔立ちの整った男たちだった。不自然に多用される彼らのアップ。鼻につくほどさわやかすぎる笑顔。歯の浮くような決め台詞。ストーリーなんてあったもんじゃない。演技も演出もお粗末なものだ。この映画は明らかに、彼らの美しさを最大限に引き出すことを目的としたものだった。
百歩譲って彼らが椎奈のタイプであれば楽しめたかもしれない。けれど残念ながらお呼びではなかった。だいたい侍はあんなにへらへら笑ってはいけない。椎奈の考える素敵な侍とは、無愛想で口が悪くて、けれど本当は優しくて、時々ふっと笑うような男の色気のある侍である。唯一七人のうちの一人、常に腹を空かせている役どころの侍はなかなかいい味を出していたけれど、それもわざわざ金を出して見るほどのものではなかった。
開始二十分で、椎奈は座っているのが苦痛になった。
もう帰ろう……
千八百円が無駄になってしまうのは腸が煮えくりかえるくらい癪だったけれど、このまま座り続けていては時間までをも無駄にしてしまう。何が運命だ、と自分の安易さを心底恨めしく思った。
一番後ろの席だったのをいいことに、椎奈は怒りにまかせて勢いよく立ち上がった。ばね仕込みの座面が元の位置に戻り、反動で何度か細かく揺れる。
ふと劇場の反対側を見ると、椎奈とほぼ同時に立ち上がった人がいた。暗がりに白っぽいセーターがぼんやりと浮かび上がっている。腹立たしそうにくるりと踵を返すと、腕をまくりながら荒々しい歩調で劇場を出て行った。椎奈も扉を細く開けてロビーに出た。
ロビーのソファに倒れ込むように腰を下ろす。倦怠感が半端なかった。もう少しここでゆっくりしてから、当初の予定通りカフェにコーヒーでも飲みに行こうと思った。
「おい」
その時突然声をかけられた。見上げると、先ほどの白いセーターの男性が立っていた。びっくりするほど綺麗な顔をしている。
「どうして席を立ったんだ」
なんて不躾な口のきき方だろうか。無表情に、低い声。ものすごく感じ悪い。
なぜこんな言い方をされなくちゃいけないんだろう。もしかしたらこの作品の関係者だろうか。そうだとしても大きなお世話だと思った。椎奈が金を払って入った劇場だ。最後まで観ようが途中で退席しようが椎奈の自由だ。無礼な言葉で非難される謂れはない。
聞こえなかったふりで無視しようかとも思ったけれど、ロビーに他に人はおらず、そこまで露骨な態度は少し大人げない気がした。
どうしよう。気分が悪くなったとでも言おうか。駄作をこれ以上観ていたくなかったので、と正直に言ったら気を悪くするだろうか。
おそるおそる男を見ると、こちらを睨みつけている。何なの、一体。
腹が立ったことが、椎奈に腹を決めさせた。正直に言おう。
「面白く……」
ところが言葉を発した途端に後悔した。
怖い人だったらまずい。「てめぇ二十分足らずで何がわかるってんだこのやろう」と襲いかかってきたらどうしよう。思わず「なかったんで」と続ける声が極端に小さくなった。
「ははっ!」
すると男性は弾かれたように笑った。少しも気を悪くした様子はなく、むしろ嬉しそうだ。
笑う顔に思わず胸がときめいた。見れば見るほど美しい男だ。怒った顔も笑った顔も見とれずにはいられない。
男は人ひとり分の隙間を空けて、椎奈の隣にどさっと腰を下ろした。額に手を当てて、まだ声を殺して笑っている。
「なんか……嬉しそうですね」
「嬉しいよ。俺、あの映画に出るはずだったんだ。でも怪我で入院して役を下ろされちまって、自分がやるはずだった役を別の役者がやっているのを見たら腹が立って仕方なかった。でも途中で席を立つほど面白くなかったって聞いたら、なんか……」
ふっきれた、とかすれた声で言って、男性はこちらに顔を向けた。
「俳優さんなんですか?」
「一応。でも知らないよな」
男性の顔をしげしげと眺める。記憶をたぐってみたが全く思い当たらない。
「はい」
「正直だな、おい」
男性は口の端を歪めて笑った。またも胸が激しく動く。それはちょうどぽっかり穴があいた部分だ。
なぜだろう。この男のそばにいると、心の穴がふさがっていく気がする。
思わず真顔になった椎奈を、男性が不思議そうな顔で見つめる。
ふいに、この目に見つめられたことがある気がした。もしかしたら、どこかでこの人が出ていたドラマでも見たのかもしれない。
「お名前をうかがってもいいですか」
名前を聞けば思い出すかもしれないと思って尋ねる。
「波多野涼。波が多い野原に、涼しいの涼」