*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

69

 ふと目を上げると、椎奈さんが村を出て行くのが見えた。俺は立ち上がって、ふらふらその後を追った。椎奈さんに会ったところでどうするつもりなのか自分でもわからなかったけれど、体は勝手に雄一郎さんの想い人の後を追っていた。

 なんと声をかけていいかわからず、一定の距離を置いてついて行った。しばらくすると、椎奈さんが立ち止った。椎奈さんの前にはパーカーの男。意味がわからなかった。椎奈さんはどうしてあの男のところにやって来たのだろう。俺は咄嗟にその場の草陰に身を隠した。椎奈さんは男の背後に回って、うつむいて何かをしていた。時折会話を交わしているようだったけれど、よく聞こえない。見つからないように身を低くして、少しずつ二人に近づいた。

 これ以上近づいたら見つかるかなと思った時、男が何かを叫んで椎奈さんの手を振り払った。

「梟で何かあったの?」

 椎奈さんが男に尋ねる。

「僕は……ヤギなんだ」

 男の言葉に、耳を疑った。

 男は、十二個も黄龍石を持っているのだと告白した。そのせいで梟でヤギと認定され、村まで逃げてきたのだと。

 あの男も、雄一郎さんと同じなのだとぼんやり思った。

 同じ力を持っているだけではない。たくさん石を持っているのに、いつまでも生還せずに苦しんでいる。雄一郎さんが支えてくれる人を欲しがっていたように、あの男も自分の居場所を求めている。

 男は梟のメンバーに必要な石の数を教えながら、どんな気持ちだったんだろう。自分も、自分に必要な数を知りたいと思ったんじゃないだろうか。一体いつになったら生還できるのか、本当に生還できる日が来るのかと、きっと辛かっただろう。少年の中に、雄一郎さんの影を求めるような思考にとらわれていた時だった。

「そんな力持っていなくたって、あなたはあなたのままでいいのに」

 椎奈さんが発した言葉に、俺は殴られたような衝撃を受けた。

 力を持っていなくたって、あなたはあなたのままでいい。

 力を使わなくたって、雄一郎さんは雄一郎さんのままでいい。

 椎奈さんの言葉は、俺が雄一郎さんに言い続けた言葉の正反対だった。

 そしておそらく、何よりも雄一郎さんが求めていた言葉だ。

 さらに椎奈さんは言った。

 人は、誰かの役に立ちたいという気持ちの中に無意識に見返りを求めていると。

 俺は考えた。俺が雄一郎さんの力を村に役立てたいと思ったことの中にも、見返りを求める気持ちがあったのだろうか。

 思えば、俺はどうしてあんなにも雄一郎さんに力を使って欲しかったんだろう。村は今まで、あの力なしでも十分に機能していたというのに。たしかに力があればより良くなりはするけれど、あそこまで力を使うことに対して食い下がる必要があっただろうか。

 しかも雄一郎さんは森で隠れて力を使っていた。小さくとも、誰かの役には立っていたのだ。けれど俺はそれだけじゃ満足できなかった。

 俺は……みんなに雄一郎さんの力を知ってもらいたかった。

 雄一郎さんはすごいんだ。こんな力を持っているんだって、そうみんなに知って欲しかった。

 みんなに……いや。

 椎奈さんに。

 椎奈さん、もっと雄一郎さんを見て。

 雄一郎さんは優しいだけじゃないんです。

 こんなにもすごい力を持っているんです。

 だからもっと、雄一郎さんを見てください……

 雄一郎さんは、村でよく椎奈さんと話をした。全身から嬉しいって気持ちがほとばしらせて。でも侍が森から帰ってくると、すぐに「あ、涼が帰ってきたよ」と椎奈さんに教えてあげた。すると椎奈さんは、またねと雄一郎さんに手を振って侍の元に駆けて行った。雄一郎さんはいつも、その姿を振り切るみたいにくるりと椎奈さんに背を向けた。

 椎奈さん。

 気づいて。

 雄一郎さんに気づいて。

 もっと雄一郎さんを見て。

 もっと雄一郎さんを知って。

 雄一郎さんの気持ちに、少しでいいから思いをはせてください。

 俺は、いつもそう心の中で叫んでいたのかもしれない。

 だからあんなにも力を使わせることに固執したのかもしれない。

 悔しかった。辛かった。報われない雄一郎さんを見ていることが。

 椎奈さんの心の中に……雄一郎さんがいないことが。

 ふと顔を上げると、椎奈さんの姿がなくなっていた。

 俺は駆け出した。村の方へ走った。

 すぐに椎奈さんに追いついた。

「椎奈さんっ!」

 俺は声の限りに叫んだ。

 椎奈さんは驚いて振り向いた。

 なぜか近くに侍もいた。

 またか、と思ったけれど、もうそんなことはどうでもよかった。

 俺はその場に崩れ落ちた。ここでようやく、自分が信じられなくくらい号泣していることに気づいた。

 椎奈さんは駆け寄ってくると、俺の前に膝をついた。

 俺は椎奈さんの両腕をつかんだ。

「雄一郎さんを……」

 恥ずかしいくらい、その声は震えていた。絞り出すような声しか出せなかった。細い腕をつかむ手に力がこもって、椎奈さんの体がかすかに強張った。

「雄一郎さんのことを…………忘れないでください」

 俺はそう言うと、椎奈さんの手をつかんだまま地面に突っ伏した。

 突っ伏して、泣き叫んだ。

 雄一郎さんのことを忘れないでと、狂ったように吐きだし続けた。

 それしか言葉を知らない機械みたいに、バカみたいに繰り返した。

 忘れないで。忘れないで。雄一郎さんを忘れないで。

 椎奈さんが何か言う優しい声が聞こえた気がしたけれど、それをもかき消すみたいに、俺は何度も叫んだ。

 雄一郎さんが伝えないと決めた思いは、俺も絶対に隠し通す。

 だから「忘れないで」という言葉に、全ての思いを託して叫んだ。

 雄一郎さんの想いを、優しさを知らなくてもいいから、ただ雄一郎さんがたしかにここにいたんだってことを、忘れないでください。

 全てを知らなくてもいいから、椎奈さんの中の雄一郎さんでいいから、その雄一郎さんを忘れないでください。

 声が枯れるまで叫んだ。涙が枯れるまで泣いた。

 

 雄一郎さんが死んだ。

 大好きだった雄一郎さんが死んだ。

 様々な思いを胸に隠して、最後に俺の名前を呼んで、

 優しくて、まぶしくて、俺の憧れだった雄一郎さんが死んだ。

 

 

 

 

 

つづき

目次