*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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 雄一郎さんが力を持っていたという事実も、椎奈さんを想っていた気持ちも、俺だけが知るものになった。俺が森からいなくなってしまえば、それはもう誰も知らないものになる。まるで最初から何もなかったみたいに。

 けれどよく考えたら、世の中というのはそういうものなんじゃないだろうか。

 どんなに素敵な歌を作っても誰にも聞いてもらえなければなかったのと一緒。どんなにおいしい料理を作っても、全部自分で食べてしまったらなかったのと一緒。物事は、他人から認識されて初めてそこに存在したことになると言っても過言ではない。

 人間もそうだ。人間は生まれて、生きて、いつか死ぬ。自分が死んでしまった後、自分のことを覚えている人が一人もいなくなってしまったら、自分が生きていたという事実は一体どうなるんだろう。

 戸籍に残るのみ? 墓石に刻まれるのみ?

 そうなのかもしれない。けれどだからこそ、人はそういう形で自分が存在したことを残すのかもしれない。

 この森はもっと極端だ。元の世界の人たちは誰一人俺たちがここで生きていることを知らず、ここで出会った人たちもこの森を去る時には全ての記憶を失う。俺自身すら、生還すれば俺がこの森にいたことを忘れるのだ。戸籍や墓のようなものもないし、俺たちがここで生きていた事実は、最初から何もなかったみたいに跡形もなく消える。そう考えたら、おそろしくなった。

 だから俺は、雄一郎さんの黙祷が行われた日の朝会の最後に、こんなことを提案した。

「モニュメントを作りませんか?」

 立ち上がった俺を、みんな不思議そうな目で見ていた。

「俺たちがこの村で生きたという証を、形にして残しませんか。俺は、この村で共に生きた人たちのことを忘れたくない。そして俺がいなくなった後も、みんながここにいたことを残しておきたい。モニュメントを作って名前を刻んだりしたら、それが可能なんじゃないかって思ったんですけど、いかがでしょうか」

 俺たちが、そして雄一郎さんがたしかにここにいたという事実を形にして残したかった。俺がいなくなった後も、ずっと。

 みんなはピンとこない表情で口々に何かを言っていて、表立って賛成してくれる人はいなかった。賛成なのか反対なのかもいまいちわからない。思った以上に鈍い反応に、俺はがっかりした。いいアイデアだと思ったのに……そう諦めかけた時だった。

「いいんじゃねえか」

 後ろの方から声が上がった。意外な人物……それは侍だった。

「亡くなった人の墓みてえなのがあるといいってのは、前から思ってた。たまに思い出して話しかけたりしてえしな。モニュメントだったら生還した人の名前も残せるし、俺はいいんじゃねえかと思う。ただ大河、具体的にどうやって作るつもりだ。ろくな道具もねえぞ」

 まさか侍が率先して賛成してくれるとは思わず、ぼーっとしていた俺は、穴を指摘されて慌てた。

 モニュメントを作るというアイデアに浮かれて、具体的な方法まで考えていなかった。たしかに元の世界みたいに石碑に名前を刻んだりしようにも道具がない。そもそも大きな石もない。

「えっと……」

 俺はしどろもどろになりながらその場で案をひねり出した。

「木を、そのままモニュメントにするんです。たとえば木に名前を刻むとか。彫刻刀はないけど……そうだ、使い終わったボールペンを使えばできると思います。もしくは葉っぱに刻んだりして……」

 でも森の木や葉は傷をつけてもすぐに戻ってしまうから、きっと名前もすぐに消えちゃうよ、とどこからか声が上がる。

 そうだ。この森のものは人が手を加えてもあっという間に元の姿に戻ろうとする。俺は慌てた。どうしようどうしようとまごついていると、また後ろから声がした。今度は侍の隣の椎奈さんだった。

「あの……私、鉢巻の飾りとして葉を加工したものをよく使いますが、それは元に戻りません。加工したら加工したままの状態を保っています。もちろん枯れません。だから葉っぱを一旦木から外して、名前を刻んで、紐か何かで木にくくりつけるという形をとれば不都合は解決できると思います。紐は、遺留品の布から繊維をいくらでもとれるので足りなくなる心配もありません。私、いいと思います。モニュメント」

 まさに天の助けだった。みんなからも満足そうな声が漏れる。この後押しがあり、モニュメント作りは満場一致で認められた。

 達成感を噛みしめていると、また侍から声がかかった。

「おい大河、お前誕生日はいつだ」

「え、六月ですけど」

「半年先か……」

 侍は少し考え込んだ後、こう言った。

「おい文ちゃん。こいつもう配給なしでよくないか」

 突然話を振られた文ちゃんは何度かまばたきを繰り返すと、すぐに侍の意図を理解した顔で「ああ!うん、そうだね」と笑顔を作った。

 やりとりの意味がわからずぼんやりしていると、侍が立ち上がり、俺に挑むような視線を向けてきた。

「大河、お前はまだ十八だが例外的に明日から配給はなしだ。その代わりモニュメントの管理責任者としての仕事をし、これからは給料を受け取れ」

 俺は目を大きく見開いて侍を見つめた。

 文ちゃんが「異議のある人はいらっしゃいますか」と人々に問いかけた。誰も異論を唱えなかった。

 まっすぐに見つめてくる男から目が離せなかった。圧倒された。こんなに大きな男だっただろうか。こんなに優しい目をした男だっただろうか。

 片袖の男が唇の右端だけを上げて、にっと笑った。

「あ……ありがとうございます!」

 俺は膝に額がつきそうなほど勢いよく頭を下げた。

 そして、涼さん、と小さな声でつけ加えた。

 

 

 

 

 

つづき

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