*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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 俺の苛立ちは日々募る一方だった。雄一郎さんの態度は頑なだし、わー君はなかなか生還しない。そして雄一郎さんが毎日見つめる椎奈さんの隣には、いつも侍の姿がある。そのどれもが俺の心をねじるみたいに不快にした。

 そんなふうに俺が雄一郎さんの力を知ってから一週間ほどが過ぎた。

 そして、俺にとって忘れられない、あの日がやってきたのだ。

 その日は、侍と雄一郎さんが村の警備を担当していた。雄一郎さんはいつも通り空手の指導をし、侍は村の外れの傾斜で椎奈さんのそばに寝そべって、どう見ても仕事をさぼっていた。二人は最近本当に仲がいい。暇さえあれば一緒にいる。組手の練習をしながらも、俺はちらちら視界に入るそれが気になって仕方がなかった。

 空手の練習が終わり、俺は雄一郎さんの隣に腰を下ろした。雄一郎さんは、今日も無意識だろうが椎奈さんを見ている。当然、隣の侍も視界に入っているはずだ。

「雄一郎さん、椎奈さんのこと好きっすよね」

 前にもした質問を、思わずまたぶつけた。雄一郎さんは俺の方を見ることなく薄く笑うと、今度は「そうだな」と小さく肯定した。

「見てるだけで……いいんすか」

「……わざわざ困らせるような真似はしたくないよ」

 雄一郎さんは自嘲気味に笑った。思いを告げることで、侍のことを好きな椎奈さんを困らせたくないという雄一郎さんの言い分が、優しさなのか臆病なのか、俺にはもはや見分けがつかなかった。

「大河の目には、俺はひどく情けない男に映っているんだろうな」

 的外れとも言えないその言葉に、俺はうかつにも返事をためらった。雄一郎さんは悲しそうな顔をすると、目を伏せた。

そして信じられないことを口にした。

「大河。俺は……この力で、人を死なせてしまったことがあるんだ」

 雄一郎さんはゆっくりと、その時のことを語り出した。

 雄一郎さんは村ができる前は『ハイエナ』の護衛をして石を集めていた。ハイエナとは『戦士』と呼ばれる自分で石を集めることのできる腕っ節の強い人の後をつけて、戦士が得た石と自分の石を交換することで石を集める人たちのことだ。ハイエナは時に戦士に襲われることがあったため何人かでまとまって行動することが多かったが、それでも不安な場合、雄一郎さんのような護衛をつけていたという。雄一郎さんは一度交換が行われるごとに石を一つ得ていた。

 そのハイエナの中にある男がいた。三十代後半で、気の弱そうな男だった。男からなかなか生還しない苛立ちをぶつけられた雄一郎さんは、ある日自分には生還に必要な石の数がわかるが知りたいと思うか尋ねた。男は一も二もなく飛びついた。かなり大きな数字だったので、雄一郎さんは何度も意志を確認した。男はどんな数字も受け止める覚悟はできている。それがたとえどんなに大きなものでも、終わりの見えない今の状況よりはましだと言った。だから雄一郎さんは告げた。それは百をゆうに超える数字だった。男はまだ、その半分も石を集められていなかった。

 村ができる前の森はとにかく時間の感覚がなかった。日の光は常に一定で、食べもせず、眠りもせず、ただ漫然と同じように時が流れる。ただ戦士の後を追い、人と遭遇するのを待ち、特に殺戮を目撃しながら自分も殺されやしないかと常に怯える。そんな状態でこれまで過ごした時間よりさらに多くの時間を過ごさなければいけないことに男は絶望し、石を集める気力を失った。そして雄一郎さんの目の前で戦士に襲いかかり、石と命を奪われた。

「あんな数字教えなければよかった。覚悟ができているなんて言葉、信じなければよかった。彼が死んだのは、俺のせいだ」

 雄一郎さんは、大きな手で額を覆った。随分前の出来事のはずなのに、その時の後悔は雄一郎さんの中で少しも風化していないのだ。それを示すように、雄一郎さんの手は細かく震えていた。

「それは……雄一郎さんのせいじゃないっすよ……」

「でも引き金となったのは俺だ。あれ以来、俺はもう誰にも石の数を教えないと決めたんだ。もうあんなふうに誰かを死なせてしまうのは嫌だ。俺だって、この力を誰かの役に立てたい。役に立って喜んでもらいたい。この力があってよかったって思いたい。でも……どうしても怖いんだよ」

 俺は自分を殴ってやりたくなった。何が臆病だ。そんなわけないじゃないか。誰よりも優しい雄一郎さんが、自分に与えられた力を誰かの役に立てたいと思わないわけがないじゃないか。

 雄一郎さんはずっと苦しんできたんだ。俺が朝会で抱いていたやるせない思いのきっと何倍もの苦しみを、ずっと抱えていたにちがいない。子どもが亡くなってしまう様も何度も目にしたんだろう。だから自分にできる範囲で力を使っていた。それなのに俺は何も知らずに勝手に苛立って、力を使おうと何度もけしかけて、雄一郎さんを困らせていた。

 唇を噛みしめていると、雄一郎さんは俺の方を見た。

「それに俺は……大河に謝らなきゃならない」

「……どうしてっすか」

「俺は誰にも知られたくないと思いながらも、この力を一人で抱えているのが辛かったんだと思う。だから……大河の前で、お前がこの力に気づいてしまうような行動を取ってしまった。本当にごめんな。俺のそんな弱さのせいで、お前は悩まなくてもいい悩みを抱えてしまったよな」

 こんな年下の、しかも時に失礼な態度を取ってきた俺に、雄一郎さんは深く頭を下げた。

「やめてください! 謝らないでください!」

 謝らなければいけないのは俺の方だと口を開きかけると、雄一郎さんはたたみかけるように言った。

「それに俺は、大河の存在に本当に救われているんだ。力の存在を知っている人がそばにいるってだけで、押しつぶされそうになっていた気持ちがすごく軽くなった。それに大河は俺のこの力を、すごいすごいって褒めて、使い方を必死に考えてくれた。最近では大河の言う通りかもしれないなって思うようになってきたよ。今日あたり……文ちゃんに打ち明けてみようと思ってる」

 胸に信じられないほどの喜びがこみあげた。俺の気持ちが、雄一郎さんに届いたのだ。

「ありがとな、大河」

 思わず涙があふれそうになり、唇をぎゅっと噛みしめた。

 

 

 

 

つづき

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