*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

80

 ミドリと加山が生還した場所に、涼と椎奈はいた。椎奈の希望で、最後の場所はここを選んだ。ミドリの鉢巻が結ばれた木に背を預け、二人で並んで腰を下ろす。耳が痛いほど静かで、自分の鼓動と触れたところから伝わる涼の鼓動だけが、時が止まっているわけではないことを椎奈に伝えていた。

 いっそ時が止まってしまえばいいのに。そうすれば、ずっと一緒にいられるのに。

 指を絡ませるようにつないだ手は、涼の足の上に置かれていた。時折思い出したように涼の親指が椎奈の肌をなぞる。椎奈は涼の肩に頭を乗せた。まるでデートの帰りにまだ離れたくなくて、駅のホームで何本も電車を見送るカップルみたいだ。帰りたくない。でも帰らなくてはいけない。それなのに動き出せない。

 いつもは人の目が届かないところに着いた途端に襲い掛かってくる涼も、今日はなんだかおとなしかった。ただ静かに、ゆるやかな呼吸を繰り返していた。

「確認してなかったけど、涼って元の世界に恋人いるの?」

 涼は眉間に皺を寄せ、怪訝そうな顔をした。そしてすぐにふっと笑うと、椎奈の頭を抱き寄せて髪にキスをした。

「いねえよ。お前は」

「いるわけない」

 涼の手が何度も優しく髪を撫でる。

「俺、仕事どうなるんだろうな……十か月だろ。たぶんまたゼロから積み上げ直しなんだろうな」

「一日も早く一流の俳優になって、テレビにいっぱい出てよ。街中に涼の写真があふれるくらいになったら私、涼のこと思い出す気がする」

「お前喧嘩売ってんだろ」

 涼が小さく笑い、椎奈も笑った。

「本当に忘れるのかな」

「忘れんだろうな、何もかも。忘れちまいてえことも、忘れちゃいけねえことも……忘れたくねえことも」

 涼がしゃべる度に、頭に熱がじんわり広がる。

「でもお前は絶妙なタイミングで俺の前にひょっこり現れる気がするな」

 現れたとしてもお互いだとは気づかないだろう。それでも涼が言ったその小さな可能性は、椎奈に大きな希望を与えた。

「そうだよね。忘れちゃっても、また出会うかもしれないよね。また出会ったら、きっとまた好きに…………って、あ!!」

 ふいに重大なことに気がついて、涼の体を引き剥がす。

「私、涼に好きって言われてない」

 涼が顔を歪めた。

「私は言ったのに、一度も言われてない」

 切れ長の目の中で、瞳が慌ただしく泳いだ。

「俺は……そういう言葉は言わねえ主義だ」

「何そのくだらない主義」

「言わなくたってわかるだろ」

「言葉にすることが大事なんだよ」

「言ったって、どうせすぐ忘れちまうんだから」

「そうだよ。忘れちゃうんだから恥ずかしくないよ。だから……」

 その時、何の前触れもなく椎奈の目に涙があふれた。

「どうしよう……忘れたくない」

 手が震えた。声も震えた。いよいよその時が来たのだと思った。

「やだ……忘れたくない」

 袖のない左腕が顔に伸ばされた。その腕には、もうさらしは巻かれていない。侍の親指が、とめどなく頬を伝う涙を拭った。

 思えば最初もこうだった。

 森に来た時、椎奈が泣いて、目の前には涼がいた。

 あの時は、こんなにもこの男を好きになるとは思っていなかった。

「好きだよ」

 こんなにも愛することになるなんて思わなかった。

「愛してるよ、涼」

 

 

 

 

つづき

目次