*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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――命をつなげられないあなたに……

 唐突に頭にある映像がよみがえった。それは何度も上から蓋をして、思い出さないようにしていた記憶だ。

 上等なソファに腰かけて椎奈を正面から見つめる姿勢のいい女性。目を合わせられなくて、その赤いセーターの胸に光るカメオのブローチばかり見ていた記憶。

「僕の石で、ミドリに生還してもらいたい。幸せになってもらいたい。そうやって、僕が生まれてきたことの証を、ミドリに継いでもらいたい」

――僕が生まれてきた証を、君は……

 フローリングの床に土下座する男の頭を見下ろしていた記憶。あの時、自分は何もかもを失ってしまったのだと悟った。

「石を受け取ってもらって命をつなげる?生きた証を残すだと?」

 加山の言葉が止むと、涼の低い声が響いた。

「勘違いすんじゃねぇ。命ってそんなもんか?石をやれば命の一部になれんのか? そうじゃねぇだろ。石はただの石だろ。命とは何も関係ねぇ」

「でも!僕の石はミドリの生還に役立つじゃないですか!僕だって本気で石が命をつなげてくれるとは思ってない。でもそれでもいい。僕がそう思えることが大事なんです。生還したミドリが僕のことを忘れてしまうってこともわかってる。でも!それでも同じ死ぬのなら、ミドリの役に立って死にたいんだ!」

「てめぇまさかそれで、ミドリに自分を殺してくれって頼んだんじゃねぇだろうな」

「……」

「頼んだのか!」

「……はい」

「何考えてんだ!ミドリ見てみろ!」

 涼が椎奈の腕の中で震えるミドリを指さす。加山は頑なにこちらを見ようとしなかった。

「ミドリには、辛い思いをさせてしまうかもしれない。でも、生還したらそんなことも忘れてしまうから。ミドリなら元の世界で、きっと幸せになれるから。だから……」

「かっこつけてんじゃねぇぞ!確かにお前の石でミドリは生還できるかもしんねぇ。でもそれはあくまでも石をやりとりしたからであって、お前の死が直接役に立ったわけじゃねぇんだよ!」

 涼はそこで言葉をつまらせた。そして何か苦い物を飲み下すように喉を動かすと、大きく一つ息をした。

「いいか加山。人間生きてりゃ、辛くて死んじまいたくなることもある。でもそれと石は切り離して考えろ。生まれてきた証と石は別もんだ。生きた証を残すことは石を使わねぇとできねぇのか?他に方法はねぇのか?お前はそれを考えもせずに、石に逃げてるだけなんだよ。なあ、そうだろ」

 最後の一言は、椎奈に向けられたものだった。

 けれど椎奈は咄嗟には反応できなかった。

 頭の中には、思い出したくない記憶が次から次へとよみがえってきていた。

 命をつなげたい

 生きた証を残したい

 死にたいほど辛い

 加山の思いは全て、かつて自分がいやというほど向き合ってきたものだ。

 そして結局、椎奈は逃げたのだ。他に方法を見出す努力を放棄し、死を受け入れることで何もかもを解決しようとした。

 そんな自分が涼の問いかけにうなずいていいのだろうか。逡巡する椎奈に加山の視線が、そして腕の中のミドリの視線が向けられる。

 椎奈は意を決した。

 死を望む気持ちを隠して明るく振る舞うことなんて、息をするみたいに簡単だったはずでしょ。前向きで、生きる意欲に満ちていて、未来に希望を抱いていた頃のことを思い出せば、あとは体が、口が、勝手に動き出すんだから。こんなこと、この一年でいくらでもやってきたじゃない。

 椎奈は二人の顔を見つめ、「そうだよ」と力強くうなずいた。

「涼の言う通りだよ、加山くん。生きた証と石は関係ない。石を継いでもらわなくたって、加山くんの存在はもうミドリちゃんの中にしっかり刻まれているよ。だから死にたい気持ちを、元の世界に戻りたくない気持ちを、石で正当化しようとしたりしないで。何より大切なミドリちゃんを悲しませたりしないで」

 加山が唇を噛む。椎奈は言葉を続ける。

「加山くんはさっき『ミドリちゃんに幸せになってもらいたい』って言ったね。自分のことより相手の幸せを願うって、なかなかできることじゃない。加山くんがミドリちゃんを思う気持ちは、本当に強いものなんだと思う。でもだからこそ、何がミドリちゃんにとっての本当の幸せか、加山くんはもう一度考える必要があると思う。加山くんの大切なミドリちゃんが本当に望んでいることは何か、もう一度、しっかり考えてみて」

 加山が椎奈を見つめてくる。ミドリがぎゅっとしがみついてくる。

 けれど椎奈の心はずっと別のところにあった。ただ自分の口が勝手に紡ぎ出す言葉を、まるで知らない人が話す言葉みたいにハリボテの耳で捉え続けるだけだった。

 

 

 

  

 

つづき

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