*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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 吐き気がした。うずくまってえずいた。一人茂みの陰に隠れ、何も出ないのに何度も繰り返した。

 頭の中は思い出したくない記憶でいっぱいだった。どんなに振り払おうとしても無理だった。

 死にたいと思った。

 やっぱりだめなんだ。

 生還から逃げないと決めたけれど、どうしてももうあの日々には戻りたくない。

 加山の気持ちが痛いほどわかった。加山の心の根底にあるもの、それは圧倒的な孤独だ。その孤独から逃れたいと、自分は孤独ではないと思いたいと、大声で叫んでいる。それは椎奈も同じだった。

 椎奈も大きな孤独を抱えていた。自分は確かに存在したのだと一番確実に確認できる方法を絶たれ、絶望していた。

 そんな時、もしも光を見出したらどうするだろう。

 石に思いを託すことで孤独が癒されると気づいたとしたら、飛びつくだろう、すがるだろう、もう自分にはそれしかないと思うだろう。

 逃げていると言われてもいい。

 錯覚でもいい。

 誰にどう思われてもいい。

 だってそれしか自分を保つ方法がない。

 うずくまっているだけでは耐えられなくなり、地面に膝をつく。視線の先の草にパタパタ涙が落ちた。そんなもの見たくなくて、草ごと握り潰すようにつかむ。爪の間に土が入り、鈍い痛みが走った。

 突然腕をつかまれ、無理矢理振り向かされた。涼だった。二人を村まで送った後で、また戻って来たのかもしれないがよくわからない。話し合いがどう終わったのかも思い出せない。

「何泣いてんだ」

「見ないでっ!」

 涼の腕を振り払った。反動でしりもちをつく。

「どうした」

 涼がかがみこんで顔をのぞき込んでくる。

「見ないでって!」

 顔を手で隠す。

 見ないでと頼んでいるのに、涼にその手を乱暴に引き剥がされて顔があらわになる。強引でデリカシーのない男に腹が立った。

「涼は無神経だ!どうして私を同席させたの。私が赤い石を避けていることを知っていたくせに。ひどいよ!涼のせいで思い出したくないことばかり思い出す!」

 涙でぐしゃぐしゃのひどい顔で叫ぶ。つかまれた腕を力いっぱい自分に引き寄せて、涼の手から逃れようとした。けれど圧倒的な力で引き戻される。大の大人が腕を引っ張り合って滑稽だ。どうして好きな男の前で、こんなみっともない姿をさらさなくてはならないのだろう。

 苛立って、腕にもっと力を入れる。呼応するように、憎い男の手にも力がこもった。

「痛い!離して!」

 そう叫ぶと、涼の手がふっと離れた。

 望み通り拘束から解放されたのに、なぜか急に心細くなり、椎奈はその手を思わずつかんだ。涼は驚いたけれど、振り払わなかった。

「泣くな」

 ただそう言って、もう片方の手で椎奈の頬の涙をぬぐった。

 まばたきでさらに涙が頬を伝う。涼はそれも親指でぬぐった。

 人の肌が触れて、どうしようもなく心が凪いだ。

 それを知ってか知らずか、涼の手の平は椎奈の頬に押し当てられたままだった。

 もう一度まばたきをすると、今度は涼の手の甲に押し出された涙が伝った。まるで自分の頬に流れるはずだった涙を、涼が代わりに受け止めてくれたみたいに。

 涼は困ったような顔をしていた。それがなんだかおかしくて、ふっと息をもらして笑う。力が抜けて、心に小さな隙間ができた。

 話を聞いてもらいたい、と思った。

 目の前の男に、自分を知ってもらいたい。それがたとえ、みっともない自分でも。

 それは誰にもしたことがない話だ。

 年々、うわべだけの会話が増えている気がする。どんなに思い悩んでいても、それを馬鹿正直に人に打ち明けたりはしない。だって悩みは言葉にした途端に、上っ面を滑るような軽いものになり果てる。誰かに話したところで、インターネットの質問コーナーで見かけるようなありふれた悩みに安易にカテゴライズされて、もっともらしいアドバイスをされて腹が立つだけだ。だから最初から話さない。

 それに怖い。面倒な人間だと、暗くてじめじめしたつき合いにくい奴だと思われたくない。だから言わない。自分の根幹に影響する悩みであればあるほど、人には打ち明けない。

 でも本当は聞いてもらいたい。もしも聞いても嫌いにならないでいてくれるなら聞いてほしい。なんて勝手だ。でもそうなのだ。

 話を聞いても今まで通りつき合ってほしい。それをかなえてくれる人を、ずっと求めていた気がする。 

 目の前の男をもう一度よく見る。涼は、話を聞いたら乱暴な言葉で正論を叩きつけてきそうだ。思いつめる女のことなんて、うっとうしいと嫌いになってしまいそうだ。そして今椎奈が一番嫌われたくない人間は、まさにその涼だ。

 けれどどうせもう、みっともない姿をさらしてしまっている。それに涼はそんな椎奈を目の当たりにしても、無神経だと罵られても、決して手を離さなかった。

  口を開きかけると涼はその場に腰を下ろし、へたりこんでいる椎奈に目線を合わせた。

 あぁ、十分だと思った。

 話したことを後悔してもいい。

 涼がどんな反応を示したとしてもそれを受け止めるから、話を聞いてもらいたい。

 椎奈は口を開いた。そして誰にも打ち明けたことのない胸の奥の思いを、洗いざらい吐き出し始めた。

 

  

 

 

 

つづき

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