*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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 結婚後、なかなか子どもができなかった。十組に一組が同じ問題を抱える時代と言われているが、不思議とまわりはどんどんできていった。二年以内に妊娠しない夫婦は、不妊症だと判断される。その肩書が椎奈のものになる日が、刻々と近づいていた。

 毎月期待しては、裏切られ絶望した。体調に気をつけ、些細な体の変化に一喜一憂し、望まない結果が出ては泣いた。また同じような一カ月が始まるのかと思うと、体が鉛のように重くなった。

 いいと言われることは全てやった。嫌いな食べ物も食べたし、うさんくさい迷信も試した。何もやらない方がいいと聞けば、何もやらずに過ごした。けれど一年に十二回しかチャンスがないという事実は、また椎奈を行動に走らせた。

 お金もかかったし体力も消耗した。それなのに何をやっても結果は同じで、毎月全身から全ての力が抜け落ちるような虚脱感を味わった。

 まわりからの言葉にも傷ついた。まだなの? 何をしているの? いらないの? 心ない言葉ばかりだった。

 自分より後に結婚した友人が、次々に妊娠していった。その度に嫉妬なんて微塵も感じさせない顔で祝福した。切り裂かれそうになる心を押し隠して、生まれてきた子を抱かせてもらった。あまりの可愛さに自分を憐れむしかなかった。家に帰って、また泣いた。

「子どもは親を選んでやってくる」という言葉を憎んだ。選ばれない自分は何なのか。何がいけなかったのかと、自分の人生を振り返った。もちろんそんなこと何の意味もなかった。

 夫とは、二年できなかったら病院へ行こうと話していた。焦る必要はない。授かりものって言うしね、と夫は穏やかに言ってくれた。

 期待と絶望を繰り返し、時に自暴自棄になってしまう椎奈にとって、夫の言葉は支えだった。夫の実家からの直接、間接を問わない催促に疲弊した時期もあったが、夫がいつもやんわり間に入ってくれた。

 何度期待を裏切られても諦めることはできなかった。心が勝手に期待を繰り返した。

 やがて結婚してから二年が経った。病院で椎奈は、衝撃的な事実を告げられた。

 椎奈の子宮は極端に小さかった。通常の半分以下の大きさしかなく、この大きさで妊娠した例はほとんどないと複数の病院が口をそろえて言った。妊娠の可能性はゼロではないが、この二年間流産はおろか一度も妊娠しなかったことを考えると、原因は子宮の大きさ以外にもあるのかもしれないと診断された。

 実際その後、右の卵管が複雑に絡み合っていること、椎奈に抗精子抗体があることが発覚した。度重なる事実の宣告と病院通いのストレスで、ついには生理が止まってしまった。

 もう妊娠なんてできないのではないかと思った。可能性はゼロではないと言われているが、治療には時間もお金も体力も気力も必要だ。もしそれだけ費やしても妊娠できなかったらと考えると、立ち直れる気がしなかった。痛い思いをすることも怖かった。そして思い悩めば悩むほど、生理は来てくれなかった。

 頭を切り替えるべき時なのではないかと思った。子どもを持たない人生を受け入れるべきなのではないかと。人生は全て思い通りにいくわけではないのだ。

 もちろんそれを受け入れることは、何もかも投げ出してしまいたくなるほど悲しいことだった。こんなに泣けるのかというほど泣いた。椎奈にとって子どもを持つことは、小さな頃からずっと望んでいたことだった。けれど、もう疲れ果てていた。受け入れれば、あの期待と絶望を繰り返す日々を終えられる。

 子どもがいなくたって幸せな夫婦はいくらでもいる。いつまでも思い悩むよりも前を向きたいと思った。養子についても調べてみよう。ありのままを受け入れて、夫と新しい人生を始めよう。そう思った。

 けれど夫の実家である宇佐見家は、時代錯誤な選民意識の強い家だった。そして夫はその家の一人息子だった。

 義母は、命をつなげられない椎奈に嫁の資格はないと言い放った。別れさせるためか、耳を覆いたくなるような辛辣な言葉を次々にまくし立てた。一番こたえたのは「まとも」という言葉だった。義母はこう言ったのだ。

『まともな体を持っていないと知っていれば結婚させなかった』と。

 それでも耐えた。夫は自分の味方だと思ったからだ。椎奈が結婚したのは義母ではない。これから残りの人生を共に過ごしていくのは夫なのだ。

 しかしその夫も、自分自身の子どもを強く望んでいた。自分が生きた証を残せる人と一緒になりたいから離婚してほしいと、土下座までした。目の前が真っ暗になった。何もかも失ってしまったのだと思った。

 椎奈は、離婚を受け入れた。

 

 

 

 

つづき

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