*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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 血のつながりに固執する義母や夫に、椎奈は結局何も言い返せなかった。そればかりか、やがて自分もその考えに染まっていった。

 ただ純粋に子どもが欲しかっただけの椎奈の気持ちは、度重なる辛い出来事を経て、やがて異質に変容していった。

 三者面談で、そっくりな親子を目の当たりにした時。

 お父さんの跡を継ぎたいと目を輝かせる生徒の話を聞いた時。

 祖父母の金婚式の祝いに親戚が一同に集まった時。

 お盆にお墓参りをした時。

 自分から奪われてしまったものを見せつけられた気がした。

 椎奈はもう、自分にそっくりな子どもを見ることも、子どもに仕事をする背中を見せることも、還暦や金婚式を祝ってもらう子や孫や、死んだ後に墓を守ってくれる子孫を持つこともできない。

 孤独だった。今も、そしてこれからも、ずっとひとりぼっちな気がした。

 誰にもこの孤独を吐き出せなかった。もっともらしいことを言われたくなかった。慰めてくれる友人もいたけれど、その会話の合間にも彼女たちは何度も席を立ち、赤ん坊をあやした。

 悪気はなかっただろう。でも言動の端々に何度も傷つけられた。彼女たちを妬み、そしてそんな醜い自分を嫌悪した。

 同じように子どもを持てない苦しみを抱えた人とは、傷をなめ合うような会話しかできなかった。そんなものを必要としていたのではなかった。椎奈はただ、孤独を託せる人が欲しかった。血を残せなくても何か別の方法で自分を残したかった。

 ならば人と関わればいいとわかっていても、怖くてできなかった。誰かと接すれば、必ず自分と比べてしまう。まわりには、自分が叶えられなかった望みをたやすく叶えている人がたくさんいた。どうしてもそこに目が行ってしまう。

 見たくなかった。見せつけられたくなかった。自分が孤独なのだと思い知らされる気がした。どうしていいのかわからなかった。一人じゃないと思いたいのに、人と関わるのが怖かった。

 自分がどんどん嫌な人間になっていくのがわかった。常に誰かを妬み、自分を憐れみ、視野の狭い偏屈な人間になっていった。

 こんな醜い自分と、この先ずっと一緒にいてくれる人なんているはずがない。死んだ後も自分を思ってくれるほどの関係を築ける人なんて現れるはずがない。

 孤独のせいで嫌な人間になり、嫌な人間になったせいでますます孤独になった。いつ終わるとも知れない、ただただ狭くて息苦しい螺旋階段を、一人で下って行く気分だった。

 死にたかった。もうそれしか解決策はないように思えた。生きていてもますます自分を嫌いになって、ますます孤独になっていくだけだ。

「だから、私……わざとトラックに撥ねられた。よけようと思えばよけられたのに、死を、迎え入れたんだよ」

 もう戻りたくなどない。この森で人生を終えたい。加山の気持ちはそのまま、椎奈の気持ちだった。孤独で、元の世界には戻りたくなくて、そしてこの森で束の間の幸せを見つけた。

 だからもういいのだ。

 もう終わりでいい。

 もう苦しい思いはしたくない。

 椎奈は大きく息をついた。呼吸を忘れるほど夢中でしゃべった。

 吐き出してしまった。醜い部分を全てさらけ出してしまった。

 後悔はしていない。でも涼の反応が怖かった。俯いて目を閉じた。

 今まで幾度となく耳にしてきた、ありきたりな慰めを聞かされるだろうと思った。それでも涼の言葉なら、素直に聞ける気がした。涼は一切口をはさむことなく椎奈の話を聞いてくれたし、今の椎奈は全てを吐き出したことで、心が随分軽くなっていた。

 唐突に頭を叩かれた。と思ったら、その手が左右に動いた。

 頭を撫でられていた。

「辛かったな」

 骨ばった大きな手に髪が乱暴にかき回された。

 でも、と正論が続くだろうと心の準備をする。何を言われても受け入れると決めている。なのに一向に声は聞こえてこない。

 それだけ?

 拍子抜けした。目を開けておそるおそる涼を見た。

 次の言葉をいくら待っても、目の前の男は結局何も言わなかった。ただ、もう一度椎奈の頭を撫でた。

 その後、どちらが先に行動を起こしたのかはわからなかった。椎奈が先だったかもしれないし、涼が先だったかもしれないし、同時だったのかもしれない。それがよくわからないくらい、それは自然な流れに思えた。

 気づいた時には、涼の腕に包まれていた。袖のない左腕に抱えられて、固い体に押し付けられていた。

 抱きしめる、みたいな甘いものじゃなかった。米袋でも持つみたいに、片手で雑に抱えられていた。

 それでも安心した。あったかくて、優しいリズムで動いていて、力強くて、男の匂いがした。紙に水が滲むみたいにゆっくりと、触れたところから心地よさが広がった。それは椎奈の中こびりついた黒くて頑固で醜くてこすってもこすっても取れなかった塊を、いとも簡単に溶かした。

 目を閉じて体を預けた。時を忘れて、その心地よさに酔った。

 

 

  

 

 

つづき

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