*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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 加山とミドリが生還してから、一週間が過ぎた。あれ以来、涼は椎奈のそばで過ごすことが多くなった。もちろん一日に何度も仕事で森に出て行くが、三日前に新人の大泉さんという警察官の男性が同じ仕事に就いてからは負担が減っているようだった。村にいる時間はほぼ椎奈と一緒にいた。

 椎奈の体の赤い石は、十九個になっていた。

 その日は、保護・巡回を広樹と大泉さん、村の警備を雄一郎と涼が担当していた。青龍である大泉さんは、涼と組むことはほとんどない。雄一郎は大河や子どもたちに空手を指導しており、涼は椎奈の隣に寝そべりながら絶えずあたりに目を配っていた。

 椎奈は雪乃さんに頼まれた鉢巻の製作に没頭していた。色白の雪乃さんには、ほんのりクリーム色がかったベースの生地に小さな赤い花をあしらったデザインのものを考えていた。

 元はスカートの裏地だったサテンの赤い布を細く裂き、布の端に粗めの波縫いを施した後、その糸を繰ると布が襞をなす。それを手で整えて花の形にしたものを椎奈はいくつも作っていた。

「何してんだ、それ」

 涼が不思議そうに尋ねる。

「こうやってやると……ほら、花みたいでしょ」

 実際の目の前で作ってやると、器用なもんだな、と小さく笑った。

 もう少し花の数を増やすために新たにサテンを裂いていると、途中で繊維が複雑に噛んでしまった。村には鋏がないので布は手で裂くしかなかったが、椎奈はこの作業が苦手だった。

「やってやるよ。貸してみろ」

 涼が気づいて、手を差し出してきた。

「どのへんで裂けばいいんだ?」

「えっと……このくらいの太さで……」

 指示した通りに涼はあっという間に布を裂いた。

 涼は普段からよく布を裂いていた。新人を保護する際に頭に巻いてやるための鉢巻として使うためだ。椎奈の手作りの鉢巻が流行している今、もはやそれは鉢巻と呼ぶのを躊躇ってしまうほど見栄えの悪いものではあったけれど。

「そういえば、どうして腕にさらしを巻いているの?」

「石がびっしりだからな。新人が見たらびびるだろ」

 涼が左腕をひねりながら答える。さらしが巻かれていなければ、無数の石が光に反射してキラキラと光ったことだろう。

 たしかに石が無数に埋め込まれた腕は、ただでさえ突然森に飛ばされて呆然としている者にとっては刺激が強すぎるかもしれない。もっとも涼の場合はその侍姿だけで十分に刺激が強いと思うのだけど、それは黙っておくことにした。

 涼は森へ来た時から今までずっと侍姿だ。着替えないのか尋ねてみたら、この姿だと遠くからでもそこに涼がいることがわかるから、梟たちへの威嚇になるのだと言っていた。

 けれど漠然と、理由はそれだけではない気がしていた。椎奈はその侍姿に、涼の生還への強い執着のようなものを感じ取っていた。

「左袖、作ってあげよっか」

 それにしても左袖がないままの姿はちょっとかっこ悪い。最近は鉢巻製作にも少し余裕があるので、ふと作ってあげてはどうだろうと思いついた。白い布もあるし、高校の授業で浴衣を作ったことがあるので袖の作り方は知っている。

 けれど涼は、このままでいい……と断って来た。歯切れの悪い口調に、作業の手を止めて目をやる。椎奈のやや前方で片肘をついて寝そべっている男は、何か言いたげに椎奈を見つめていた。

 途端に顔がカッと熱くなるのを感じた。涼が俳優であることを思い出す。図らずも流し目を送るかのような体勢の涼は、息を飲むほどに美しかった。こんな綺麗な男に自分という個体が認識されていることが信じられない。まるでテレビの向こう側にでもいるみたいだ。思わずうっとりと見とれていると、涼の形のいい唇が長い逡巡を解いた。

「これは……アキラに引きちぎられたんだ」

 浮かれていた気分が、ドンと音を立てて落下した。

 アキラという名は初日に何度も耳にした。あの額の石が黄龍石になった人物のことだ。

 あの日の涼は口数も少なくて、いつも以上に表情がなかった。アキラとは一体どんな人物だったのか。涼の目の前でどんな最期を迎えたのか。気になってはいたけれど、安易に話題にできるはずがなかった。

「アキラは……」

 そのアキラのことを涼が話してくれようとしている。途端にせつなくて、やり場のない気持ちがこみ上げた。思わず手元の赤い布を握りしめる。

 涼は視線を村に戻し、話し出した。

 アキラは梟を抜けて村にやって来た白虎の少年だった。すぐに涼に懐き、涼の仕事を覚えたがった。どこへ行くにもついてきた。涼も態度には出さなかったが、アキラをとてもかわいく思っていた。

 椎奈が森へ来た日、その少し前に事件は起こった。涼は森で二人きりの時に、アキラに背後から襲われた。もみ合いになり、その時に左袖を引きちぎられた。

 アキラが涼を襲った理由は、涼が持つ青い石だった。白虎だと言っていたアキラは実は青龍で、涼の青い石を奪う機会をうかがい、涼に取り入っていたのだ。アキラは涼の額の石を奪おうと何度も挑んできた。そして……

「俺はあいつの額の石に……触れてしまった」

 椎奈は言葉を失った。

 アキラという人物が亡くなったことは、もちろん知っていた。けれど、まさかそんなことがあったなんて。自分の身を守るためにはやむをえなかったとはいえ、涼が……手にかけてしまったなんて。

 かわいがっていた子を手にかけてしまった涼。もがれた片袖が、そのまま涼が負った傷を表しているように思えた。涼が袖を直すこと断ったのは、その傷を背負い続ける覚悟のあらわれだろうか。

 かける言葉が見つからなかった。何を言ってもこの場にはそぐわない気がした。

 

 

 

 

 

 

つづき

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