*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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「嫌な話だったな」

 涼がゆっくりと振り向く。

「ううん、私が袖のこと言ったせいで……辛いこと思い出させた」

「いや、いつかお前には聞いてもらいたいと思ってたからな……」

 それは、椎奈が特別な存在であることをにおわせる言い方だった。

 そんな言い方しないでほしかった。

 そんな風に言われたら、どうしていいのかわからなくなる。

 これ以上好きになんてなりたくないのに。

 だって……明日にでも別れが来るかもしれない。

 あの抱きしめてくれた次の日の朝会から、涼はあることをするようになっていた。給料を受け取りに前に出る時、必ず椎奈のどこかしらに触れてから立ち上がるのだ。それは頭だったり、肩だったり、髪だったり、頬だったり。

 椎奈が赤い石を飲む時は、涼を見つめて飲んでいた。涼を見るのはこれが最後かもしれないと思うと、見つめずにはいられなかった。

 石を飲めば、生還してしまうかもしれない。

 もう会えないかもしれない。

 だから思わず触れる。見つめる。

 好きだから、そうせずにはいられない。

 椎奈が涼を想う気持ちは、もはや一方的なものではなかった。けれど互いに、気づかぬふりをしていた。思いを言葉にはせず、朝会の場以外では態度に出すこともなかった。

 言葉にすることが怖かった。言葉にしたら、思いが爆発してしまいそうだった。

 そばにいたい。離れたくない。

 そして相手を一人、残していきたくない。

 思いを通わせた人が自分のことを忘れて消えてしまうなんて耐えられない。そんな思いはしたくないし、それ以上に、させたくない。

 だから互いに建前を保っていたのに、今の涼の発言は反則だ。思わず俯くと、涼も気まずそうに目を逸らした。

 花作りを再開しようとしたが、心が乱れてしまって集中できない。椎奈は一旦作業を中止することにした。

「今ちょっといい?」

 散らばった糸を片付け終えた時、文ちゃんが涼と椎奈に声をかけてきた。隣にはニッカズボンに手を突っ込んだ広樹もいる。

 村の中央には、大泉さんに連れられた見かけない姿の男性の姿があった。黄色いパーカーに黒のジーンズ姿で、フードをすっぽりとかぶっているので顔はよく見えない。空手の指導を終え、大河と話をしていた雄一郎に大泉さんが声をかけると、すぐに雄一郎が大河を伴ってこちらに向かって歩いてきた。

 椎名、涼、文ちゃん、広樹、雄一郎、大河の六人が一堂に会したところで、文ちゃんが座るよう促した。

「報告が二つ。まずは黄龍がまた村に加わることになったよ」

 文ちゃんが、村の中心で大泉さんからみんなに紹介されているパーカーの男性を示して言った。

「それからこっちが本題なんだけど、ちょっと気になる話を入手したんだ」

 文ちゃんが居ずまいを正して言葉を続けた。

「あの黄龍の子は、梟を抜けてきたところを大泉さんが巡回中に拾ってきたんだけど、彼が言ったんだ。『梟には、生還に必要な石の数がわかる人がいる』って」

 場は一瞬しーんと静まり返ったが、すぐに涼が鼻で笑って吐き捨てた。

「なんだよそれ」

「頭の上に、数字が見えるらしい」

「本当かよ」

 頭の上に数字だなんて冗談みたいだ。

「俺、知りたくないな、そんな数字。まるで寿命を知らされるみたいじゃないか」

 広樹が言うと、「生還するのに、寿命って」と大河がつっこむ。

「僕も知りたくないよ。それがなんであれ、先のことを数字で断言されるってのはあまり気持ちのいいものじゃないよね」

 文ちゃんが広樹に同意した。

「俺は知りたいっすよ。だって石を飲む時って、毎度毎度、これで生還するんじゃないかって緊張して、あーちがったかってがっかりするじゃないっすか。あれ結構疲れるんすよね」

 大河が軽い調子で言う。言葉は軽いが、言っている内容はあなどれない。

 大河の意見には椎奈も同感だった。毎日石を飲む度に心は激しく振り回される。期待と落胆。緊張と弛緩。そして不安と安堵。生還を怖れていた頃の椎奈にとって、石を飲むことは拷問に等しかった。生還してしまうかもしれない不安で心臓が激しく打ち、生還しなかったという事実が確認できても、心はいつまでも落ち着かなかった。さらに最近では、毎日涼との別れを覚悟している。あの緊張は筆舌に尽くしがたい。もしも必要な石の数がわかっていれば、こんなにも心が振り回されることもないだろう。

 

 

 

 

 

つづき

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