*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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 懸命に走ると、視界の奥に消えそうなほど小さく白い影が見えた。涼の足は信じられないほど速くて、いくら走っても追いつけない。白く心もとない影が黒い森に溶けてしまいそうで、椎奈は思わず大声で叫んだ。

「涼っ!」

 悲鳴みたいなその声は、涼の足の動きを止めた。

 追いついた時には、涼は小さくうずくまっていた。立てた膝にひじを乗せて頭を抱え込んでいる。涼の前に回り、膝をついた。

「あの時……」

 涼の声が、小さく空気を震わせた。

「アキラが消えた時、石が残った。青い石と、白い石と、黄龍石が。黄龍石は飲み込んだ。でも俺は……もう何もかも嫌になって、石なんかもうどうでもよくて、石が消えていくのをただ見てた。あの白い石を持って帰っていれば、雄一郎は死なずに済んだのか? これは石を無駄にした罰か。アキラを……多くの人を手にかけてしまった罰か。だったら……だったら俺が死ねばよかったじゃないか!」

 涼が頭をかきむしる。髪を束ねていた紐がはらりと落ちた。

「どうせあの時死ぬつもりだった。死んで、俺の石を他の青龍たちにくれてやるつもりだった。だから俺が……俺が死ねばよかったのに。なのになんで雄一郎なんだよ!」

 死を望む言葉に耳を疑った。思わず肩に触れると、涼は一瞬体を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。目の端が赤く染まっている。

「俺がどれだけこの森にいると思う。九か月だぞ。なのにいつまで経っても生還しねえ。毎日毎日無駄に石を取り込んでいる。自分でもとっくに嫌気がさしてるよ。俺は呪われてんのか。一生この森で暮らすのか。だったら死んだ方がましだよ。あの金髪のガキが言うみたいに、殺してくれりゃいいんだ!」

 涼が自分を抱くようにして、左手で右腕を掴んだ。みしみしと音が聞こえてきそうなほど、袖ごと強く握りしめている。

 ふいに肩に乗せていた手に、着物のどこかの糸が切れたような手ごたえが伝わってきた。まるで着物に宿った生還への執着の一部が、切れてしまったような気がしてぞっとした。

 何も言えずにただ見つめる。涼が顔を上げて笑うような息をもらした。そして手を伸ばしてくると、そっと椎奈の頬に触れた。朝会の時に触れるみたいな仕草で。

 椎奈は涼の目線の高さに合わせるために腰を落とした。

「雄一郎の石で、次々に人が生還するのを見たか?」

 返事を求めているのではないと思った。だからうなずきもしなかった。

「俺もああなるのかと怖くなった。すげえ怖かった。いつまで経っても生還しねえんだ。俺もああやって……石を集めきる前に死ぬに決まってる。そして俺の石で、多くの人が生還するんだ」

 涼の眉間に深い皺が寄った。

「でもそれでいい。怖いけどそれでいい。残されるくらいなら、俺は死ぬ方がいい。どんどんまわりから人がいなくなる。雄一郎もいなくなった。きっといつか広樹も、文ちゃんも……お前も」

 突然強い力で引かれ、ものすごい力で抱きしめられた。

「お前も、きっと俺をおいていなくなる」

 骨まで砕かれるのではないかと思うほどの強い力。

「もういやだ。おいていかれるのは。お前まで目の前で消えたりしたら、俺はもう……」

 抱き返すこともできないくらい、きつく抱きしめられていた。けれどどうしても震える体を包んでやりたくて、もう隙間なんて一ミリもないのに、さらに自分の身体を涼に押し付けた。涼の力が少し緩んだ。そっと背中に手を回す。何度もゆっくり背中をさすって、涼の耳の後ろに鼻先をうずめた。

「おいていかないよ」

 ささやく声がどんなに小さくても、その耳に確かに届く距離。

「一人にはしないから。だからお願い。死ぬなんて言わないで」

 いつも胸を張って毅然と立っている男が、腕の中で小さく震える。

「私が涼の生還を見届ける。残される辛さは、私が請け負うよ」

 涼が首を横に振った。それを押さえ込むように頭を抱く。

「必ず生還できるよ。だから最後の瞬間まで、一緒にいよう」

 それがどんなに先でもいい。

 最後までそばにいる。

 赤い石を集めないことで非難されたって構わない。

 今の椎奈に腕の中の男より大切なものなんてなかった。その男の心が少しでも軽くなるのなら、すべてを捧げられると神にだって誓える気がした。

 

 

 

 

 

つづき

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