*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

2021-03-09から1日間の記事一覧

84【最終話】

「波多野……涼さん」 涼、と口にした刹那、息が止まった。心臓がどくんどくんと何度も大きく跳ねる。 椎奈の声に、波多野も眉間に皺を寄せた。記憶をたぐりよせるように椎奈を見る。 「お前の名前は」 思わずムッとした。椎奈は男にお前と呼ばれることが好き…

83

チケットを購入し劇場に入ると、最終日だということを差し引いてもあまりにも閑散としていた。百人ほど収容できる劇場に、客は椎奈を含めて五人しかいない。椎奈は劇場右手の一番後ろの席に腰を下ろした。 この映画がもう、目も当てられない内容だった。 主…

82

* * * ――最悪だ…… 椎奈は激しく後悔していた。 薄暗い中、手で顔を覆い、泣きたくなる気持ちを吐き出すようにため息をついた。こんなことになるなんて。運命なんて簡単に信じた自分を呪いたくなる。本当にバカだった。 ――千八百円も無駄にしてしまった…… …

81

身を乗り出して思い切り抱きしめた。背中に手が回されて、きつく抱き返される。 もう体は、すっかり涼の感触を覚えていた。 涼の胸に、腕に、抱きしめてくれる力強さに、その温度に、匂いに、すっかりなじんでいた。それなのに忘れてしまうなんて。 涼が椎奈…