*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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「私……石を払った方がいいかな」

 涼と椎奈はいつもの傾斜に並んで腰を下ろし、まるで芸能人を囲む野次馬のように紫音に群がる人々を遠くから眺めていた。

「なんのことだ?」

「ほら私、紫音から必要な石の数聞いたからさ。石、払った方がいいかなと思って」

「あれは勝手に言われたんだろ。でもまあ、払いたきゃ払えばいいんじゃねえか」

 他の人が対価を払って石の数を聞いているのに、勝手に宣告されたとはいえ自分だけただで聞いてしまったことが、少しばかり心苦しかった。悩むくらいなら払ってしまおうと、後から甘利さんの元へ行こうと決める。そして傍らに寝そべる男に視線を向けた。

「涼は教えてもらわなくていいの?」

「あんなガキに頭下げて教えてもらうなんてまっぴらごめんだ」

「頭下げなくたって、石を払えば教えてくれるよ」

 冗談めかした口調に、こちらも笑って答える。

 すると腕のさらしをいじりながら、涼がぽつりと漏らした。

「もしも……すげえ数だったらと思うと、なかなかな」

 素直とは程遠い性格の男がふとこぼした本音に、椎奈は思わずその目を覗き込んだ。

 不安に思うのは当然だろう。もしもそれが気の遠くなるような数字だったならば、これから先、石を集め続ける気力を失ってしまうかもしれない。

 けれどもしかしたら、あと少しかもしれない。もうあと一歩のところまで来ているかもしれない。

 涼の瞳は希望と不安が入り混じった不思議な揺れ方をしていた。きっと一秒ごとに、知りたい気持ちと知りたくない気持ちが入れ替わっているんだろう。

 椎奈は視線を涼から村の中心に移動させた。そこでは、団子みたいに紫音に群がるだけだった人々が、いつの間にか綺麗な列を作っている。

「もしもすごい数だったとしたら、まずは鉢巻のクオリティを上げて、値上げを断行しようかな」

「あ?」

「鉢巻を値上げして……それから行商に出るのはどうだろう」

「行商? 何言ってんだ」

「森に出てさ、鉢巻を売り歩くの。石を三個出しても欲しいって言ってもらえるようなかっこいい鉢巻を何本も作って、まずは梟のところにでも行って売りつけようかな」

 涼が唇の端を歪めるのを、視界の端にとらえる。

「手に入れた石は全て青い石に交換して、涼にあげる」

「おい」

 涼が窘めるような声を上げた。

 紫音に石の数を聞いた人は、その足で甘利さんの元へ向かい、石を払っていた。列が次々に消化され、短くなっていく。

「私は、この世界でカリスマ鉢巻デザイナーになるの。そして巨万の富を築いて、それをイケメン侍に貢ぐ」

「……んなバカな真似したらぶっとばす」

「私の稼いだ石を私がどう使おうが自由だよ」

 涼が不愉快そうな顔をした。きっと椎奈が涼のために石を集めていることを、ずっと心苦しく思っている。ここ数日も何度も袖をめくられては、「まだ赤い石に交換してねえのか」と怒られた。

「お前に何も返してやれるものがねえのに、石なんか受け取れるわけがねえ」

「涼はヒモだから、ただ貢がれていればいいんだよ。見目良く生まれた者の特権だよ。よかったね。親に感謝しないとね」

「人を顔だけの男みたいに言いやがって」

 歪んでも人並み外れて美しい顔で悪態をつき、涼は仰向けに寝転がった。椎奈もその隣に誘われるように寝そべる。

 椎奈は、涼のような人のためにこそあの力はあるような気がしていた。いくら集めても生還できず、本当に自分はいつか生還できるのだろうかと不安で仕方がない涼。そんな涼に、きちんとゴールは用意されているのだと、確実にそこに近づいているのだと示してやることができる。だから涼が数字を知ることに椎奈は賛成だった。だからと言って、もちろん強制する気はない。でももし知りたいけれど踏ん切りがつかないのであれば、背中を押してやりたかった。

「心配いらないよ。どんな数字だろうと必ず打つ手はある。だから涼が知りたいと望むなら力になるよ。それにきっとすごい数なら、私以外にも力になってくれる人はたくさん現れると思うな。村ってそう思わせてくれるところだよね」

 不思議と、村では殺しなんて起きないだろうと強く思っていた。それと同じように、もしも莫大な数の石を必要とする者がいれば、誰もが力になろうとしてくれるんじゃないかと思えた。甘いだろうか。けれど村は椎奈にそう思わせてくれる場所だった。

 涼は黙って空を見上げていた。そして目を閉じた。涼や村の男たちが枝を払って作った穴から光が降り注ぐ。椎奈も目を閉じた。

「目を閉じるなんて、久しぶりだ」

 そう言うと、涼は静かに笑った。

 森で好きだと告げたことは、いつの間にかうやむやになっていた。涼が何かを言いかけた時に大河が現れて、雄一郎を忘れないでと何度も叫んで泣いた。何か大切なことを見落としていたのだと、心の一部が抜け落ちるような感覚に襲われた。雄一郎が亡くなった直後だと言うのに、好きだなんて言葉を口にしたことが恥ずかしくなった。 

 あの言葉はまるでそのままあの場所に置き去りにされたみたいに、その後の涼と椎奈の間から気配を消した。

 ふと草のこすれる音がして目を開けると、涼がこちらに顔を向けていた。

 涼は穏やかな顔をしていた。石の数を聞く決心をしたのではないかと、漠然と感じた。椎奈は静かに微笑み返した。

 涼が体を起こした。そして突然「うおっ」と驚いた声を上げた。

 慌てて起き上がると、目の前にいつの間にか紫音が立っていた。

 

 

 

 

 

つづき

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