*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

34

 鉢巻製作の拠点に戻って物思いにふけっていると、「おい」と後ろから声がした。振り返ると涼だった。涼の声は低くて静かなのによく通る。本当は振り返らなくても声の主はわかっていた。

「あの人しゃべりっぱなしだったろ」

 涼は椎奈の隣に腰を下ろした。特にこちらを見るでもなく、村を見渡している。

 あの人とはもちろん雪乃さんのことだろう。

「そうだね。でも楽しかった」

 そうか、と低い声がする。心地いい声だと思った。

「涼の……あ、涼って呼んでもいい?」

 気付けば隣の男に親近感を感じていて、そう尋ねると侍は手元の草を乱暴に引き抜いて「好きにしろ」と呟いた。

 涼が雪乃さんに会いに行くように言ったのは、もちろんあの話を椎奈に聞かせるためだろう。雪乃さんは椎奈が「村に来てどれくらいになるんですか」と尋ねただけなのに、あそこまで話を膨らませた。きっと誰にでもあの話をしているのだ。

「涼の言う通りだね。石を受け取ろうとしなかったこと反省したよ」

 涼は何も答えず、さらに草を引き抜いた。

「でも直接言ってくれればよかったのに」

「……俺が言うと……きついからな」

 口が悪いんだよとつけ加えて、目も合わせない男は頭を掻いた。

 驚いた。

 あの時口をつぐんだのは椎奈を思いやっての行動だったのだ。

 心がふっと明るい色に染まる。

 この男を理解するのに、言葉に捉われていては大切なことを見失うと思った。

「お前……」

 お前と言われることも、もう気にしない。

「俺の分も作れ」

「鉢巻?」

 ああ、と男は小さくうなずく。

 椎奈が鉢巻を作り、涼が石を払う。村の中をまた石が回る。椎奈は横顔に「いいよ」と答えた。

「おなかはすいてないのに、こんな時は何か食べたくなるね」

 なにげなくそう言うと、涼は、

「俺はもう……そんな気持ちは忘れたな」

 と薄く笑って遠い目をした。

 自分の無神経な発言を後悔していると、涼がまた草を引き抜いて差し出してきた。

「草でも食っとけ」

「いやだよ。ヤギじゃあるまいし」

 そう口にした途端、涼の顔がこれ以上ないというほど強張った。

「どうか……した?」

 恐る恐る尋ねると、涼は「いや」と言って頭を振り、突然草を口に入れた。そしてぺっと吐き出す。

「何してるの」

「くそまずい」

 当然でしょ、と椎奈が笑うと涼は少し俯いて、口の端だけで笑った。

 これだけ色々なことがあったのに、まだ次の朝会が始まる様子はない。椎奈が森へ来てから、まだ一日も経っていないのだ。これがこの森で暮らすということかと、椎奈は暮れることのない空の光を見上げて思った。

 

  

 

 

 

つづき

目次