*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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 足もとを見つめ、草を踏みしめる音を楽しみながら歩いていると、「おい」と聞き慣れた声がした。目を上げると、腕を組んだ涼が少し先の木に斜めにもたれかかっている。

「勝手にいなくなるな。一人で森に出るなんて何考えてる」

 探しに来てくれたのだろうか。ものすごく怒っている。近づくと、涼は椎奈の頭を見てさらに顔をゆがめた。

「お前なんで鉢巻してねえんだよ」

 あ、とジーンズのポケットに手をやる。紫音の前で外した後、入れたままだった。梟がいるかもしれない森を鉢巻もせず、一人うつむいて歩いていたなんて、自分の肝の据わりっぷりがおそろしい。

 睨みつける涼の前で鉢巻を結んだ。

 あれだけ取り乱していた涼だけれど、すっかり元の調子を取り戻しているように見えた。心の中はわからないが、姿はそう見える。髪は結い直されて着物の乱れもなかった。

「あまり心配させるな。二度と一人で森に出るなよ」

 そう呟いた涼の瞳が、一人にしないって言ったくせに、と駄々をこねている気がして、

「さっきのは四六時中一緒にいるって意味じゃないよ」

 とからかう。涼はものすごく不愉快そうな顔をした後、ふっと笑った。

「あれは……どうかしてた。忘れろ。俺の生還なんか見届けなくていいし、お前はお前でちゃんと石を集めればいい」

 冷静になってそう思い直したのだろう。けれど涼がどう言おうが、もう椎奈の決意は固かった。

 椎奈は今なら言い出せる気がして、シャツの袖をまくった。涼の視線が吸い寄せられる。

「ここに青い石が十五個ある。いつか使ってもらえたらと思って、涼のために集めてきたの。……受け取って」

 涼は眉間に皺を寄せると、顔を上げた。

「バカかお前は。んなことしてねぇで、こんなものさっさと誰かと赤い石に交換しちまえ」

 涼はくるりと体の向きを変えると、村の方へ歩き出した。

 立ち尽くしてその背中を見つめる。

 そして言った。

 無意識だった。

 ただ自然に口から言葉がこぼれ落ちた。

 それは、氷柱の先から水滴が落ちる様に似ていた。

 そのくらい唐突で、きっかけなどなかった。

 ただ時が満ちただけだ。

「好きだよ」

 涼の足がぴたりと止まった。

 そして振り返り、感情を映さない顔で椎奈をまっすぐに見た。

 涼が何かを言いかける。しかしその声は、叫ぶような声にかき消された。

「椎奈さんっ!」

 突然背後から呼びかけられ、驚いて振り向く。そこにはなぜか大河の姿があった。

 

 

 

 

つづき

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