*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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「ある人が山奥で遭難した。やがて夜になり、あたりは真っ暗になった。どちらに進んだらいいのかもわからず絶望していると、遠くに一つの明かりが見えた。その人はその明かりをたよりに下山して助かったの。きっとどこかの民家の明かりだったんだろうね。その家に住んでいた人には、もちろん誰かを助けるつもりなんて全くなかった。ただいつも通り生活していただけ。けれどその自分の生活のための明かりが、結果として人を救うことになった。人の役に立つって、こういうことなんじゃないかな。人はこうやってただ生きているだけで、互いに助け合って支え合っているんじゃないかな。人は誰もが人から必要とされたいと思っている。だから何か行動を起こそうとする。でもね、人はただ生きているだけでいいんだよ。目に見える形で役に立っていなくても、ただそこにあるだけでいいの。それだけでどこかで誰かを支えているの。だからあなたも闇雲に力を使わなくていい。ただ生きているだけでいいんだよ」

 少年は一度ぎゅっと目をつぶると、奥歯を噛みしめた。

「人の役に立ちたいっていう気持ちはとても尊い。でもね、人はそこに無意識に見返りを求めてしまう」

 役に立つから必要としてほしい。力を提供するから居場所がほしい。少年が求めた見返りは、そんなせつなくなるような望みだ。

「あなたはさっき、役に立たなければ必要ないと思われて捨てられるって言ったね。でもそうじゃない。人が人を求める気持ちは役に立つ、立たないとは関係ない。だからあなたは無理して力を使わなくてもいいんだよ。……とはいえ、絶対に使っちゃだめだ、そんな力は無い方がいいっていうわけじゃない。あなたはその力を含めてあなたなんだから、そんなあなた自身を否定するようなことは言うつもりはない。ただ、その力は人を傷つける大きな危険を孕んでいる。だからみんなでいい使い方を考えて慎重に使っていこう」

「みんなって?」

「村のみんなだよ」

「僕に村に来いって言うの?」

「そのつもりだけど」

「今さら無理だよ」

 少年が吐き捨てる。

「今さら村になんか行けっこない。みんな僕のことバケモノでも見るみたいに見てたし、変なじいさんもメガネも僕のこと責めた。侍なんて僕のこと縛り上げるし、きっと今さら村になんて入れてもらえないよ」

「そんなことないよ。悪い事をしたと思ってるなら、きちんと謝ればいいんだよ」

「簡単に言うなよ」

「もちろん簡単じゃないかもしれない。でも、あなたはあなたが傷つけた人たちに謝るべきだと思わない? 村に入れてもらうためとかじゃなく、ひどいことをしたんだからそこは人としてきちんと謝るべきだよ」

 どんなに駄々をこねられようが、ここは譲れない。椎奈は少年の目を見つめて、きっぱりとした口調で言った。その時、大切なことに気付き、語気を緩める。

「っていうか、それを言うなら私だよね……」

「え?」

 少年が不思議そうな顔をする。椎奈はその頬に目をやった。

「ごめんね、叩いたりして」

 白く透き通るような頬には、あの怒りの衝動に任せて叩いてしまった跡はもう残っていなかった。森では怪我はすぐに治る。けれど、叩かれた心の痛みは自然には治らない。

「ごめんね」

 繰り返すと、少年は薄茶色のまつげを何度か上下させて、「別に……もういい」と短く言った。

「そういえばあなた名前は?」

「……黒川しおん」

「しおん、ってどういう漢字?」

「紫に、音。……へ、変だろ、こんな見た目で黒川って。父さんも母さんも外国人だけど、でも、父さんもグランパもずっと日本に住んでて、色々あって、グランパが昔日本人に引き取られたりしたから、だから僕は日本人じゃないけど、黒川っていう名字で……」

 過去に何度も名前と外見をからかわれた経験があるのか、紫音は目線を逸らして早口で予防線を張る。

「変だなんて思ってないよ。それに紫に音で紫音って、すごく綺麗な名前。ちなみに私は大野椎奈。それからメガネをかけていたのは文ちゃんだよ。文ちゃんは頭がいいから、きっとこれから先、紫音の力になってくれる。ね、一緒に村に帰ろう」

 そう言って立ち上がると、紫音はうつむいて「まだ……やめとく」と呟いた。

 まだ、という言葉に安堵する。いずれ来るつもりはあるということだ。謝るのにも心の準備をする時間がいるのだろう。ここから先は本人次第だ。あまり手を差し伸べすぎてもいけない。

「一人でいると危ないから、なるべく早く来るんだよ」

「本当に……入れてもらえると思う?」

 心細そうな顔に、椎奈は微笑みだけを返した。そして「じゃあ、待ってるね」と片手を上げ、くるりと背を向けて足を踏み出す。すると

「お、おい」

 と紫音が声をかけてきた。

「なに?」

「その……わ、悪かったよ。石の数、勝手に教えて」

 椎奈の忠告を素直に聞き入れて、すぐに謝って来たことに感動した。最初の印象からは想像もつかないほど紫音は素直な子なようだ。素直だからこそ、梟の間違った思想に容易に染まってしまったのかもしれない。

「ううん。気にしてないよ。……そうだ」

 椎奈はポケットから白い布を取り出して差し出した。紫音の手を拘束していた布だ。

「村ではみんな頭に鉢巻を巻くことになっているの。人が多いからうっかり手があたったりしたら危ないでしょ。ちょっとくしゃくしゃだけど、これ使って」

「いらないよ、そんなかっこわるいやつ」

「そうだよね……かっこわるいよね、これ。村に来てくれたら私が素敵なやつ作ってあげるんだけど」

「どっちもいらない」

 かわいくない態度のはずなのに、不思議とかわいらしく見えた。

「じゃ、私行くね」

 強引に手に布を握らせ、椎奈はもう振り返らずにその場を後にした。

 

 

 

 

つづき

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