*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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「僕のこの力は……村には必要ない?」

 少年がぽつりと呟いた。結び目から目を離さず答える。

「必要か必要でないかで言ったら、必要ないだろうね」

 蜂蜜色の頭がゆっくりとうなだれた。

「そもそもこの世に、どうしても必要なものなんてないんじゃないかな。無いと不便なものならいくらでもあるけれど、たいていのものは、無いなら無いでなんとかなる」

 少年が振り向いて顔を歪める。その顔は、怒っているようにも傷ついているようにも見えた。

「あなたのその力もあったらもちろん役に立つ場面もあるはずだけれど、無いからって困るものでもない。たとえるなら刃物みたいなものかな。使い方次第で人の暮らしは飛躍的に便利になるけれど、やみくもに振り回すと人を傷つける。無いと本当に不便で、でも無くたってどうとでもなる」

 鋏のない村での暮らし。不便を感じたことは数えきれない。けれど涼は布を手で裂く。斧なんてなくても、その腕一つで木の枝を折る。

「あとは車もそうだね。車があるおかげで人の暮らしは信じられないくらい便利になった。車がなければ救えなかった命だってあると思う。でも一方で年間何万人もの人が車によって亡くなっているのも事実。だから人は、ものすごく細かくルールを定めて車に乗るでしょ。少しでも車がもたらすデメリットを少なくするために、システムを作って、ルールを定めて、みんながそれに従う。あなたがしたことは、ルールを無視して車を暴走させたみたいなものだよ。それによって多くの人が傷ついた」

 何か言い返してくるかと思ったけれど、少年は意外にも素直に話を聞いていた。沈黙が訪れ、また結び目に集中する。

 やがて結び目に大きな動きがあった。まるで発芽みたいに、固い結び目から一本の線が姿を現した。すかさずつまんで引っ張る。

あとは砂の城が崩れるように、紐はいとも簡単にほどけた。

 少年の手から、椎奈の鉢巻と紐がはらりと地面に落ちた。

「取れたよ」

 少年は自由になった手首を胸の前でつかみ、軽くよじった。椎奈は落ちた紐と鉢巻を拾い上げ、ジーンズのポケットに入れた。

 鉢巻は結び直さなかった。なぜか結ばない方がいいような気がしたからだ。

 傷の具合を見てやりたくて、少年の前に回ってその手をつかんだ。

「見るなっ!」

 突然手を弾き飛ばされた。驚いて少年の顔を見る。

 触るな、じゃなくて見るな? 少年は細かく唇を震わせて、潤んだ目で椎奈を睨みつけていた。

 椎奈は強引に少年の手を取った。少年は小さく抵抗した。涼の手をも弾き飛ばしていた少年だ。本気で逃れようと思っているのなら椎奈の手を振りほどくなどたやすいだろう。それでも少年の手は、かすかな拒絶を示すだけでおとなしく椎奈に握られている。

 椎奈はその手を観察した。布にこすれた部分が少し腫れているだけで、他におかしなところは見当たらない。

 少年の顔を見上げると、泣きそうな顔をしていた。

「梟で何かあったの?」

 腕がびくっと震える。

「言いたくないなら、別に言わなくていいけど」

 わざと突き放すように言う。学校で生徒によく使う手だった。

「僕は……」

 少年がうつむいた。

 沈黙が訪れたが、必ず言葉が続くことを確信し、根気強く待った。

 やがてその言葉が放たれた時、椎奈は少年の手首を見ていた。ちょうど目の前で赤い傷が一つすっと消えた時だった。鍋の焦げつきをスポンジでこすり取った時のような、見逃してしまいそうな消え方。ああ森がまた元に戻ろうとしている、とぼんやり思っていた。

 そんなことを考えていたから、言葉とともに袖の下から現れた衝撃的な光景に対しても、それほど驚きを覚えることはなかった。ただ、ああ綺麗だな、と思った程度だった。

「僕は……ヤギなんだ」

 静まり返った森でなければ聞こえなかったかもしれない小さな声と、少年の腕に光る無数の琥珀色の石。

 椎奈はそれを、少しも表情を変えることなく受け止めた。

「僕は……梟で、石一つと交換に生還に必要な石の数を教えていた。当然、ものすごい数の石が手に入った。梟では、金色の石は他の色の石十個と交換できる。僕の他にも額の石が金の奴らは何人かいたけど、金色の石は僕にばかり集まった。それなのに……僕はいつまで経っても生還できなかった。今僕の体には、十二個も金色の石がある。ついに僕は、梟のリーダーにヤギだと宣告された。それまでは僕の力が必要だったから、ヤギになるのを免れていた。でも、もうみんな自分に必要な石の数を知っているし、これ以上僕の力は必要ないんじゃないか、それよりも僕の体の金色の石を分け合う方がいいんじゃないかってことになって……」

 少年は、目を閉じて一つ大きく息をついた。

「僕は梟を逃げ出した。村に行こうと思った。村には、生還に必要な石の数を知らない奴らがいっぱいいる。僕の力が必要とされると思ったんだ。必要とされれば、ヤギでもきっと殺されずに済む。だから僕は……」

 つかんでいた手が振り払われて、無数の黄龍石も袖の下に隠れた。少年は腕を隠すように胸に抱えた。

「バカだね」

 椎奈は少年の頭に手を置いた。蜂蜜色の髪はとてもやわらかい。

「石をたくさん持っていたって、村があなたを殺すはずがないのに。そんな力持っていなくたって、あなたはあなたのままでいいのに」

 だから少年はあんなにも必死に自分の力を誇示していたのだ。自分は有益な存在だから村においてほしいと。そんな少年の不器用さを愛おしく思った。手段は間違っていたけれど、その行動へと駆り立てた衝動は、あまりにも幼くてそして純粋なものだったのだ。

「でも、人は自分にとって役に立つ人間を大事にするだろ。役に立たなければ、必要ないと思われて捨てられるじゃないか」

「だから人の役に立とうとしたの?」

「おかしい?」

「おかしくないよ。でも、ちょっと間違ってる。人の役に立つことと、必要とされることってのは別物だよ。ねえ、こんな話を知ってる?」

 少年は食い入るようにこちらを見つめていた。椎奈はゆっくりと話を続けた。

 

 

 

 

 

つづき

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