*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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 午前六時五十八分。

 別に決めているわけではないけれど、椎奈はいつもこの時間に家を出る。朝のルーティンなんて決まっているから、何も考えずに淡々とタスクをこなせば、だいたいいつもこの時間になる。

 余計なことは考えたくない。

 起きて、シャワーを浴びて、クローゼットの一番右にかかっている服を着る。決まりきった動作で身支度を整えて、家を出る。

 まっすぐ前だけを見て、白い息を弾ませながら、駅までの道を駆け出す。急いでいるわけではないけれど、椎奈はいつも小走りに歩を進める。景色がただ後ろに流れていくのが心地いい。余計なことを考えずに済む。

 最初の信号待ちで、いつも通りバッグの中でスマートフォンが震えた。取り出して見ることはしない。メッセージの送り主も内容も見当はついている。

 送り主は、同僚の体育教師、天王寺。二つ年下の二十六歳。

 内容は、何語かわからないカタカナの朝の挨拶と(天王寺は帰国子女だ)、昨日の椎奈の素敵だったところを古典文学を引用して褒め称える文章、そして週末のデートの誘いだ。

 いつも通り、返信はしない。最近はメッセージを読むことすらしない。

 だってめんどくさい。何も考えたくない。

 ああ……

――死にたい。

 信号が青に変わり、椎奈はまた駆け出す。

「もうつき合っちゃいなよ」と、からかってくる同僚もいる。椎奈は「私にはもったいないよ」と心にもない返事をする。

 相手が天王寺だからどうとかいう話ではない。

 椎奈はもう、誰とも恋愛する気はないのだ。

 いくら天王寺が資産家の息子で、一流大学出身で、誰もが振り返るほどの整った顔を持ち、モデル並みのスタイルであろうとも関係ない。空気が全く読めず、口を開けば自慢話ばかりだし、歯は白すぎるし、鏡見すぎだし、机に自分の写真を飾るなんて頭に虫が湧いているんじゃないかと思うし、香水の匂いをプンプンさせながら人目もはばからず下心垂れ流しで椎奈を口説いてくるのには心底うんざりするが、それも別にどうでもいい。

 椎奈はただ、もう二度と誰とも深い関係にはなりたくないのだ。しつこく迫ってくる男なんて厄介なだけ。

 大通りに出ると、再び信号にひっかかった。歩道の端ギリギリに立ち止まる。

 片側三車線の国道は、上りも下りもラッシュで混雑している。車がビュンビュン走り抜け、胸までの髪が風で乱暴にかき乱される。しばらく乱れるがままに放置していたけれど、隣で同じく信号待ちをするサラリーマンの視線が気になって、椎奈は渋々手櫛で簡単に髪を整えた。最後にサイドの髪を耳にかけ、傷み切った毛先をつまんで、すっと離す。

 きちんとお金と手間をかけて着飾っていた頃は、こんな髪じゃなかった。毛先までつやつやして、触り心地もよかった。でも今は外見なんて保護者に不快感を与えなければあとはどうでもよくて、一年前から伸ばしっぱなしの髪は束ねてもいない。かつては手をかけていた名残で毛先だけウェーブが残っていてみっともないくらいだ。

 化粧ももうやめた。不潔でなければいい。幸い教師という世界には、すっぴんの女性はいくらでもいる。一般企業なら客に失礼に当たると指導を受けるところだろうけれど、教師がすっぴんであることを咎める保護者になんて会ったことがない。進学校として全国にも名が知られている私立高校の教師に期待されることなんて、間違っても化粧のスキルなんかではない。

 信号はなかなか青に変わらない。レンガ色に舗装された歩道で小さく足踏みをしながら、コートの前をかき合わせて身を縮めた。足踏みをしているのは、天王寺を踏みつけているわけではない。寒いからだ。今朝は風が強い。

 こんなふうに立ち止まっていると、また死にたくなってくる。目の前の道路に飛び込みそうになる。けれどそれはだめだ。自殺はだめ。そんなことをしたら、ただでさえ悲しい思いをたくさんさせた両親をさらに悲しませることになる。自殺は、絶対だめ。

 ただ淡々と毎日を送る。何も考えず、誰とも深く関わらない。恋愛なんてもってのほか。

 人とは浅くつき合いたい。当たり障りなくやっていきたい。たとえ心の中が負の感情でいっぱいでも、ニコニコ笑って、冗談を言い合って、元気な声で生徒と接する。死にたいと思っていることなんて、誰にも気づかれたくはない。誰かと深く関わるなんて、考えるだけで恐ろしい。

 死を望む気持ちを隠して明るく振る舞うことなんて、椎奈にとっては息をするみたいに簡単だ。そんな自分をあえて演じる必要はない。だって椎奈も少し前までは前向きで、生きる意欲に満ちていて、未来に希望を抱いていた。その頃の自分を思い出せば、あとは体が、口が、勝手に動き出す。天王寺はきっと、そんな着ぐるみの外側みたいな椎奈を好きになってしまったんだろう。申し訳ないとしか言いようがない。

 今日の信号待ちは何だか長く感じられる。椎奈はぼんやり通りを見渡した。

 今、道に誤って飛び出す子犬でもいたら真っ先に助けに行くのに。

 私の命なんて、いつ終わったっていいのに……

 その時、ひときわ大きな風が吹いた。髪がまたぶわっと冷たい風に舞い、足元にかさかさっと何かがまとわりついた。風がやむと、それはピタッと動きを止めた。

 それは邦画のチラシだった。

 侍……だろうか。着流しに刀を差した若い男が七人並んで写っている。イケメンを集めすぎだ、と一目で三流映画と判断した。おそらく売出し中のアイドルあたりを主役にすえた、しょうもない映画のはずだ。天王寺が金を出してくれると言っても見ないだろう。映画が大好きだった頃の椎奈ですら見なかったかもしれない。

 それなのになぜか目を奪われた。何かが気になる。目を眇めてチラシに隈なく視線を走らせる。出演者、スタッフ、特に気になる名前はない。公開日は来年の二月。これも別に……

 一向に手がかりがつかめないままふと目線を上げると、いつの間にか歩行者信号が点滅を始めていた。

 うっかりどうでもいいチラシに見入って、信号が青になったことに気がつかなかった。一緒に信号待ちをしていた人たちはほとんど通りを渡りきっている。

 椎奈は勢いよく横断歩道に飛び出した。タイミング悪く、すぐに赤になる。それでも構わず大股で走った。

 横断歩道を半分以上過ぎたところで、左を見て、目を疑った。

 ものすごい勢いで右折してくる大型トラックが、すぐ目の前まで迫っていた。

 凄まじいクラクションの轟音が耳に響く。それだけで弾き飛ばされそうな迫力だ。

 このままじゃ轢かれる。

 よけなきゃっ!

 前に進むべき? それとも下がるべき? 迷っている暇はない。トラックはもうすぐそこだ。どうしよう。轢かれる。死んじゃう。早く、早く逃げないと……

――え? ……逃げる?

 ふと冷静になった。

 果たして、逃げる必要があるのだろうか。

 これはものすごいチャンスなんじゃないだろうか。

 これならきっと自殺だとは疑われずに死ねる。

 ただの事故だ。両親を必要以上に悲しませることもない。

――死にたい。死にたい。死にたい。

 この一年で一体何度そう思っただろう。

 今の暮らしに楽しいことが一つもないわけではない。

 何かの拍子に心から笑うことだってある。

 でもそれ以上に、辛いのだ。苦しいのだ。もうこれ以上生きていたくなどないのだ。

「やっと終われる……」

 椎奈の目からすっと涙がこぼれるのと、それはほぼ同時だった。

 椎奈の身体は大きな放物線を描いて、トラックに弾き飛ばされた。

 

 

 

 

つづき

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