*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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      *  *  *

   

「ん……」

 さわさわと風が髪を揺らす気配を感じ、椎奈はゆっくりと目を開けた。緩慢な速度でまばたきを繰り返す。

 目を開けても周りはぼんやりと薄暗い。コートの後ろでまとめたベルトが背骨と地面の間で存在を主張している。体をねじって、ふと、なぜ横になっているんだろうと不思議に思った。

 鼻から大きく息を吸い込む。少しずつ頭がはっきりしてくる。

 徐々に輪郭を取り戻し始めた視界の先に、無数の葉が折り重なる様子が映る。目を四方に動かすと、葉の天井はどこまでも遠くに広がっていた。

「なに……ここ……」

 どこまでも木が続いている。

――……木……なんで?

 寝ている場合ではない気がして、ゆっくりと体を起こしながら、必死に記憶をたぐる。

 今朝起きて、コートを着て、家を出た。寒くて、横断歩道を渡って……

――トラックに撥ねられた!

 そうだ、トラックに撥ねられた。そこまでは覚えている。大通りの横断歩道で、たくさんの人の前でトラックに撥ね飛ばされたはずだ。

――なのに、どうしてこんな…………森にいるの?

 周りを見渡す。そこには横断歩道も、人も、トラックも見当たらない。ただ無数の木が生い茂っているだけだ。

 枝と葉が幾重にも重なって空を覆い隠し、陽の光が遮断されてあたりはとても薄暗い。漠然とした恐怖を感じて、椎奈はぶるっと身震いした。

 そこは異常なほどに静かだった。

 身を守る本能なのか、神経が研ぎ澄まされていく。

――なんか……変……

 そして直感した。ここは変だ。何かがおかしい。

 どんなに耳を澄ましても、物音一つしない。森だというのに、葉のこすれ合う音も生き物が蠢く音も全くしない。

 不規則な自分の息遣いがやたらと耳についた。呼吸を整えようと試みるが、息は小刻みに震える。

 怖い。怖い怖い。自分を抱きしめるように両腕を掴む。指先が細かく震える。

 何度も深呼吸を繰り返した。吸っては吐き、また吸っては吐く。目を閉じて、震えが止まるのを待つ。

 一人じゃなくて、生徒と一緒だと考えよう。守るべき者がいると、人は強くなれる。椎奈はクラスの生徒たちの顔を思い浮かべ、少しずつ落ち着きを取り戻した。

――……まずは、怪我の状態を確認しよう

 そう決めて、ゆっくり目を開け、腕をほどいて、指を動かしてみる。痛むところは特にない。

――トラックに撥ねられたのに……

 体中を触ったり頭を振ってみたけれど、不思議なことにどこも痛くなかった。それどころか擦り傷一つ見当たらない。

――もしかしてこれが死後の世界……?

 そう考えて、直後に絶望する。

 こんな死後の世界は望んでいなかった。死んだ後もこんなふうに意識があるのなら、死んだって何の意味もない。

 リアリティも希望もない考えはすぐに捨てて、別の可能性を考えてみた。

 記憶喪失ということはないだろうか。トラックに撥ねられた後、大怪我から奇跡的に回復し、あれやこれや色々経て、この誰もいない森にやってきて記憶を失った……

 可能性はゼロではないけれど、自分の姿を見る限りその線は無さそうだった。椎奈の今の服装は、白の開襟シャツにグレーのタイトスカート、赤に黒の縁取りのカーディガンにベージュのトレンチコート、そして黒のありふれたパンプス。トラックに撥ねられた日の朝、着たものに間違いない。この可能性も低そうだ。

 ならば一体何なのか。

 考えることが面倒くさくなってきて、思わずため息がこぼれる。

 とにかくどこかに向かってみようと、気だるい思考で決意した。いつまでもここに座っていても埒があかない。歩いていれば、道に出るなり人に会うなりするだろう。そうすれば何かわかるかもしれない。今の状況よりましなことはたしかだ。

 よろよろと立ち上がり、周りを再度見渡す。わかってはいたが、どちらの方向に歩けばいいのか見当もつかなくて途方に暮れる。

 その時、ふと気づいた。スマートフォンを見ればいいじゃないか。こんなところだし電波はないかもしれないけれど、それでも何か情報が得られる可能性はある。

 なんでもっと早く気が付かなかったんだろう、と自分を情けなく思いながら右肩に手をやった時、鞄がないことに気が付いた。

 慌てて足元を探す。けれど持っていたはずの鞄はどこにもない。

――もうやだ……。財布もないってこと? 

 どこでなくしたんだろう。意識を失っている間に盗られたのかもしれない。財布なしでどうやって帰ったらいいのか。

 奥歯がぎりっと鳴る。

 無意識に噛みしめていたことに気付き、そんな自分が馬鹿らしくなった。すぐに椎奈はこわばった体から力を抜いて、ふっとため息をついた。

「…………ま、いっか」

 もう、全部どうでもいい。カードを止めなきゃとか、免許証の再発行が面倒だとか、頭の中で反射的に色々な心配をする一方で、「もうどうとでもなれ」と思う自分が徐々に存在感を増していく。

 全てを諦めるようにさらに一つ大きなため息をついた時だった。

 背後でがさっという音がしたかと思うと、突然二人の若い男が飛び出してきた。

 

 

 

 

つづき

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