*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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 涼が本気で加山に村を出て行けと言ったわけではないことくらいわかっていた。けれど頭と心は別だった。

 自分が村を出て行けと言われたように思えた衝撃は、今も椎奈の心臓を激しく収縮させていた。

 自分がたまらなく恥ずかしかった。そして自分のしている鉢巻が、その恥ずかしさをさらに煽っていた。

 元の世界では格好なんてどうでもよかった。それなのに村に来て自分が最初に考えたことといえば、ださい鉢巻を何とかしたいということだった。

 一言で言えば、浮かれていたのだ。

 石や森や村に夢中になって、死を待つ自分を束の間忘れられたから。

 久しぶりに……楽しかったから。

 でもそれでどうするつもりだったのだろう。一生ここで暮らすつもりだったとでもいうのか。そんなわけがない。ただ元の世界に戻るということから目を逸らしていただけだ。

 そんな自分のわがままは、ともすると村に迷惑をかけていたかもしれない。赤い石を避け、別の色の石を椎奈が手に入れてしまうことは、その色の石を集める人の生還を妨げかねない。

 バカだ。自分はバカだった。

 そしてそんな愚かな自分を、よりによって一番知られたくない人に知られていた。

――涼にだけは知られたくなかった。

 誰よりも村のことを考えている人だからではない。

 誰よりも長く生還を望み続けている人だからではない。

 好きなんだろうなと思った。

 口が悪くて無愛想なくせに本当はいつも他人を気遣っている、たまらなく優しいあの男のことが。涼のことが好きだから、愚かな自分を知られたくなかった。そんな自分は見られたくなかった。乾いた笑いが漏れて、立てた膝の間に頭を抱え込んだ。

 好きだなんて気持ちを抱くことは、もうないと思っていたのに。

 死んでしまいたいと、そればかり考えていたはずなのに。

 どうしてよりによってこの森で、自分はこんなにもいきいきしているのだろう。情けなくて笑うしかなかった。

 どうすべきかはわかっていた。あとは心を決めるだけだ。

 村にいたい。

 涼のそばにいたい。

 だったら生還から逃げるわけにはいかない。

 たとえ生還の先に待っているのが死を待つだけの人生だとしても、赤い石を集めなければならない。

 二の腕をつかむ手の爪がシャツ越しに皮膚に食い込んだ。皮膚が裂けてしまいそうなほど痛い。ちょうどいいと思って指先にさらに力をこめた。目に涙が滲むのは、その痛みのせいだと思いたかった。

 

 

  

 

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