*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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 その足で、大河の元に向かった。

 実は受注していた鉢巻の受け渡しで、思わぬ誤算があったのだ。二人のうち一人が、朱雀だった。当然赤い石では払ってもらえない。

 白い石で受け取ったので、大河の持っている赤い石と交換してもらおうと思いついた。朝会で共有財産と交換してもよかったけれど、大河から受け取った石で生還する方が嬉しいと思った。

 大河はモニュメントとなる木をようやく決めたようだった。ちょうど村の中心に立つ木で、枝ぶりもよく、貫禄のある木だ。

「大河くん」

 声をかけると、大河は作業を止めて顔を向けた。

 その手には数種類の葉とボールペンが握られている。モニュメントとなる木の枝には小さな葉がぽつぽつ茂っていて、その枝に他から取ってきた葉を結びつける計画のようだが、どの葉が一番似合うか検討しているらしい。細かいところまで手を抜かない性分のようだ。

「椎奈さん」

 笑顔を作った大河に「今いいかな?」と声をかける。大河は「もちろんっす」と少し乱れた赤い鉢巻を直しながら答えた。

 石の交換をお願いすると、大河は快諾してくれた。

 ところが椎奈が白い石を手渡そうとすると、「白い石は、陣さんに預けておいていただけますか」と、穏やかな声で言った。

 すぐには発言の意味がわからなかった。

 今の村で陣さんに自分の色の石を預けるケースは、自分に必要な石の数を知らない場合か、もしくはその石で生還してしまう場合だ。生還が近い者の名は自然と村に広がっている。けれど大河の名前は聞こえてきていない。つまり大河は前者ということだ。

「大河くん、もしかして自分の数知らないの?」

 大河はこの力に対して肯定的な意見を持っていたはずだ。石の数を知りたいともはっきり言っていた。意外に思って尋ねると、大河は小さく笑った。

「あいつは自分の数を知りたくても知ることができないんで、俺も別に知らないままでいいかなって思って」

「あいつって……紫音?」

「はい」

 椎奈は息を飲んだ。

 そうなのだ。紫音はたしかに他人の生還に必要な数はわかるが、自分の数を見ることはできない。

 紫音が村に加わり、その力を使うことを朝会で提案する前、文ちゃんと紫音はかなりの時間を使って、そのことの意味を話し合っていた。内容は聞いていないが、その力が他者に与えるいい影響、悪い影響、そして紫音自身に与える様々な影響について話したのだと思う。

 その中にはきっと、紫音だけが自分の生還に必要な石の数を知ることができない、という話もあったはずだ。

 今の村の状況は、紫音がその事実を受け入れたことを意味している。

 村では、文ちゃんや陣さんをはじめとして一定数、自分に必要な石の数を知らずにいる人がいる。けれどそれはおそらく紫音に対する配慮というよりは、自分の生き方から出した結論であると思う。自分の命に関する重大な事柄を、他人のために犠牲にできる人はなかなかいないだろう。

 けれど大河は違う。はっきりと知りたいと言っていたのに、数を知らないままでいる。それはまぎれもなく、紫音のためだ。

「きっといつか、他にも同じ力を持った人が現れると思うんです。そうしたらあいつも自分の数がわかるし、俺もその時教えてもらえばいっかなって」

「同じ力を持った人が……他にもいるかもしれないと思ってるってこと?」

 大河は少し目を泳がせると、小さくうなずいた。

あいつだけってことはないと思います。きっと今も森のどこかにいるんじゃないかな」

 いつの間にか大河がすっかり大人になった気がした。話し方が変わっているだけではない。他人が抱える痛みに気がついて、静かに拾い上げて守ることができる男になっている。

 あいつ、話してみると結構いいやつですよね、面白いし、と大河が笑う。紫音をきちんと見てくれていることに胸がつまった。

 大河はこんな子だっただろうか。こんなに圧倒される男だっただろうか。表情はやわらかいのに、目にはゆるぎない力が宿っている。

「椎奈さん、明日ですよね、生還するの」

「……うん」

「モニュメント、間に合いそうでよかったです。明日朝会でみんなに葉を配る予定なので、名前書いていってください」

 大河はやわらかく微笑んだ。

 大河と別れてからも、その姿が頭から離れなかった。人の成長というものを目の当たりにした思いだった。

 あれだけ変貌を遂げた大河も、生還したらここでのことを忘れてしまうのだろう。まるで何もなかったかのように元の大河に戻るのだろうか。そんなこと信じられない。

 この森で人は、人と関わり、感情をぶつけあい、成長し、変化する。生還してここでの記憶を失ったらその変化はどうなるのだろう。何もかもなかったことになるのだろうか。

 椎奈もこの森で大きな心の傷と向き合うことができた。そのことも全て忘れてしまうのだろうか。

 生還することが怖くなった。

 まるでこの森での自分が死んでしまうみたいだ。

 実際そうなのかもしれない。ここでのことをすっかり忘れて元に戻ってしまうのならば、ここでの自分は死んだも同然だ。

 明日、自分は死ぬんだろう。死んで、元の世界に生まれ直すのだ。

 死にたくない。はっきりとそう思った。

 もっと生きたい。

 生きたい。

 自分が信じられなかった。こんなことを考えるなんて。

 けれど椎奈の心の中には今、その一つの願いしかなかった。

 生きたい。生きていたい。

 狂おしいほど、そう願っていた。

 

 

 

 

 

つづき

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