*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

4

 バキッと言う鈍い音がして、ふっと体が軽くなった。馬乗りになっていたはずのピアスがいなくなっている。口を塞いでいた手から解放され、勢いよく肺に空気が入り込み、思わず激しく咳き込んだ。

「ちくしょう、侍だ!」

 ターバンが叫び、椎奈から距離を取った。ニット帽も後に続く。押さえつけられていた手足が自由になり、椎奈は急いで体を起こして身を縮めた。

 ピアスは5mほど離れた木の根元までふっ飛ばされていた。

 そしてピアスと椎奈の間に、誰かが背を向けて立っていた。

――白い……侍……?

 その時、いつの間に後方に回ったのか、ターバンが飛び上がって白い影の後頭部に拳を振り下ろした。不意打ちでまともに攻撃を食らった影がよろめく。倒されるかと思いきや、影はその流れで身を低くし、隙をついて別方向から蹴りを入れようと片足を上げていたニット帽の軸足を蹴り払った。ニット帽は尻もちをつき、ぎゃっと悲鳴を上げた。

 影が立ち上がり、へたりこんだままのピアスめがけて歩を進めると、その背中にターバンが飛びつき、背後から羽交い絞めにした。

 しかし影は少し体をひねっただけでそれをいともたやすく振り払い、仰向けに転がったターバンの鳩尾を力任せに踏みつけた。「ぐ…ぁ…」というかすれ声がターバンから漏れる。

 ピアスは仲間を置いて逃げ出そうとしていた。影はその肩をつかみ、振り向かせると鼻っ柱に拳をぶち込んだ。

 骨が砕けるような音がするとともに、ピアスの腰から何かが落ちた。ベルトだ。

 影は黙ってベルトを拾うと、ひゅんっと音を立てて一度振り、地面に転がっている三人に順に顔を向けた。

 再度、ひゅんっという音が響く。椎奈は息を詰めた。

 最初に逃げ出したのはピアスだった。鼻を押さえる手の隙間からは血が流れている。すぐにターバンとニット帽も後を追う。三人とも命からがらという体だ。

 影は手に持っていたベルトを三人の背に向けて放り投げた。ベルトは意思を持つかのように空中で少しもがいた後、ストンと地面に落ちた。三人の姿がどんどん小さくなっていく。

 椎奈は一部始終を、ただ茫然と眺めていた。白い影がゆっくりと振り返る。

 椎奈は目を疑った。

 そこには――侍が立っていた。

 すらりと背が高くて姿勢がいい。白い着流しに濃紺の帯を締めて、脇には二本の刀を差している。薄暗い中に浮かび上がるその姿はまるで光を放っているようだ。肩までの髪は無造作に結い上げられて、美しい額に細い毛束がいくつかかかっている。そこからのぞく切れ長の目は壮絶な色気を放って、椎奈の目をくぎ付けにした。

 自分が置かれた状況を全て忘れ、椎奈は侍に見とれた。

「大丈夫か」

 侍がしゃべった。目の前に侍がいるという信じられない状況のせいで、しゃべったというただそれだけのことにひどく驚いた。返事をしたいのに、うまく声が出せない。

 その時ようやく、自分がしゃくりあげるほど泣いていることに気がついた。かろうじて、こくこくと二度うなずく。

 侍が近づいて来て、椎奈の前にかがんだ。顔がよく見える。

――なんて……綺麗な顔なんだろう。

 切れ長で涼しげな目は少し憂いを帯びている。鼻は適度に高く、すっきりとして上品だ。唇は薄く、まっすぐに引き結ばれている。媚びへつらわない、愛想もふりまかない、自分を決して安売りしないような一見冷たいとも思える顔立ちだった。

 ターバンに頭を殴られたためか髪が少し乱れている。急に頭の怪我の具合が心配になった。打ち所が悪ければ大変なことになる。

「あ……あなたは、大丈夫ですか?」

 頭大丈夫ですか? と言おうとして、これでは誤解を与えかねないと思い、そう尋ねた。侍という信じられない姿をしている以上、万が一ということがある。

 侍は質問には答えず、なぜかふっと目を逸らすと、「遅くなって……悪かった」と小さな声で謝った。

 どうして謝るんだろう。椎奈はふるふると首を横に振った。謝る必要などない。助けてもらえただけで十分だ。もう絶対にだめだと思った。犯されて、殺されるか拉致されるところだったのだ。

「遅くなって悪かったよ」

 侍が繰り返した。美しい眉を下げて本当に申し訳なさそうな顔をしている。自分がいつまでも泣き止まないから繰り返し謝るのかもしれない。そう思い、椎奈は涙を拭って笑顔を作った。侍はほんの少しだけ唇の端を動かして、ほっとした表情を浮かべた。

 

 

 

 

つづき

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