*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

5

 やがて呼吸が整うと同時に頭もクリアになった。自分で思う以上に早く、椎奈は冷静さを取り戻した。A型はあまりにも異常な事態に直面すると逆に冷静になるという。椎奈はA型の父とA型の母から生まれた生粋のA型だ。そのせいかもしれない。

 冷静になってすぐに大事なことに気がついた。侍にまだ礼を言っていない。男三人に対して、椎奈を助けるために一人で挑みかかってくれたのだ。何をさしおいてもまず礼だろう。

「助けていただいてありがとうございました」

 椎奈は座ったまま、丁寧に頭を下げて礼を言った。侍は「いや」とだけ言うと、椎奈をちらりと見てすぐに目を逸らした。

 侍は随分と無口な人のようだった。何も言わず、ただそばに座っている。一度髪を結い直した以外はほとんど動くこともなく、じっと物思いにふけっているように見えた。

 実は呼吸を整えている間に、ふとこの侍を警戒した。助けて油断させておいて、襲ってくるなんてことが無いとは言い切れないと思った。身を挺して助けてくれた人に対してこんな疑いを持つことは自分でも嫌だったけれど、何しろ一生経験することはないと思っていた「殺されるかもしれない」という恐怖を味わった後だし、あらゆる可能性は考慮しておくべきだと思った。

 椎奈は侍を観察した。侍は椎奈を見ていなかったので、頭のてっぺんから爪先まで遠慮なく何度も視線を往復させた。

 侍、侍、と腰を抜かしていたけれど、おそらく本物の侍ではない。なぜならちょんまげ頭ではないし、話し方も現代風だ。コスプレの線が強くなる。コスプレ自体は少しもおかしいことではないが、こんな何もない森でコスプレをしているとなるとやはりおかしい人なのかもしれない。

 それにコスプレの可能性を置いておくとしても、侍にはまだおかしな所があった。

 まずその着物には左袖がなかった。肩の縫い目の部分から完全に取れてしまっている。代わりに左腕には上から下まで細めのさらしがぐるぐると隙間なく巻かれていた。よく見てみれば、右袖の下にも同じようにさらしが巻かれているようだ。つまり両腕にさらしを巻きつけているということになる。なぜ。

 さらに侍は、頭に驚くほどださい鉢巻を巻いていた。端がほつれた白くて細いただの布きれを巻いている。討ち入りか。保護者リレーか。それにしてももっとましな布はなかったのか。

 薄暗い森に一人投げ出された戸惑いも、殺されかけた恐怖も、このおかしな姿の侍を見ていると遠い出来事のように感じられてくる。

 椎奈の視線に気づいたのか、侍が鉢巻を一度さすった。そしてやおら懐から白くて細長い布を取り出すと、椎奈に差し出してきた。

「これ、頭に巻いておけ」

 いやです。という言葉が即座に喉まで上がってきた。受け取った布の長さと形状から判断して、侍はほぼ間違いなくこのださい布を、自分と同じように鉢巻として頭に巻けと言っているのだろう。それは、絶対に、いやだ。

 椎奈が布を受け取らずにいると、侍が自分の鉢巻を少しめくって額を椎奈に見せてきた。

「お前の額には今こういう石が埋まっている。俺は青い石だが、お前は赤い石だ。その石に他人が触れるとお前は死ぬ。だから触れられないように森では必ず鉢巻を巻いておけ」

 椎奈は信じられないものを見た。

 侍の眉間の少し上、ちょうどインドの女性がビンディーをつける位置に、青い石が埋まっていた。ラピスラズリのような深い青とでもいえばいいのか。それは女性の親指の爪ほどの大きさの丸みのある楕円形の石だった。表面はなめらかで、かすかに空から差し込む光の加減で時折優しく光っている。

 そういえば、さっきのピアスの額にも似たようなものがあった。黒っぽいアクセサリーかと思ったけれど、侍の額にある石にとても似ていた。

 その石が椎奈の額にもあるという。思わず額に手を伸ばし、慌てて引っ込めた。侍の「触れると死ぬ」という言葉を思い出したからだ。

「自分で触れるのは大丈夫だ。触ってみろ」

 侍の言葉に安心して、おそるおそる触れてみる。確かにそこには、肌とは明らかに感触のちがう、つるりとした何かが埋まっていた。

「いつの間にこんなもの……」

「この森や石については、これからきちんと説明してくれる奴のところに連れてってやるからそこで聞いてくれ。とりあえず今はこれを巻いておけ」

 侍が布を示して言った。椎奈はためらいながら受け取った。

 死ぬと言われれば巻くしかないが、死ぬなんてとても信じられない。

 けれど、目の前の侍は決して冗談でそんなことを言う人には見えなかった。椎奈は渋々鉢巻を巻いた。トレンチコートにださい鉢巻。最悪だ。よりによって人並み外れたイケメン侍に出会った途端に、こんな格好をしなくてはいけなくなるなんて。少しでもみっともなくないように鉢巻を整えたいけれど、ここには鏡なんて物は無い。でもこんな自分の姿は見たくないから、無くてよかったのかもしれない。

 侍はこれから椎奈を誰かの元へ連れて行くつもりのようだった。果たしてついて行っていいものか、不安は募る一方だった。けれどついて行かなければ、さっきの三人に襲われる前の状態に戻るだけだ。つまりどちらにしても不安なわけで、どうしたらいいのか途方に暮れている椎奈に、侍が声をかけてきた。

「立てるか。……痛むところはないか」

 感情が読み取れない声だったが、優しさが伝わってくる言葉だった。

 椎奈は腹を決めた。侍を信用する。どちらにしても不安ならば、この侍について行こう。お世辞にも愛想はないけれど、芯は優しい人だと思っていい気がした。

「立てます。痛いところもありません」

 そう答え、椎奈はゆっくりと立ち上がった。侍は椎奈の様子をじっと見つめ、ふっと目を逸らすと自分も立ち上がり、くるりと背を向けて「ついて来い」と言って歩き出した。

 

 

 

 

つづき

目次