*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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「この森には他にも元の世界と違うところがたくさんある。風はないし、生き物もいない。昼もないし、夜もない。暑くもないし、寒くもない。植物は成長しないし、枯れもしない。僕たちは食べないし、眠らない」

 あまりのことに椎奈は唖然とした。さっき「説明は以上」と言ったくせに、文ちゃんはとんでもない隠し玉を繰り出してきた。

「一日中昼間のような状態で、僕たちは眠らずずっと起きているんだ。一日がね……とてつもなく長いよ。僕は最近ようやく慣れてきたけど、最初の頃は本当に苦痛だった。寝ないってだけでもかなり長く感じるけど、それ以上にさ、自分が今までいかに食べ物のことばっかり考えていたのかを思い知ったよ」

 たしかに考えたことがなかったけれど、人間は一体一日のうちの何時間を食べ物に費やしているのだろう。実際に食事をとる時間の他に、準備、片付け、何を食べるか考える時間も合わせたら、軽く五時間……いや、おやつ、お茶の時間も含めれば六時間以上になるのではなかろうか。

 六時間寝て六時間食べ物に費やす暮らしからその二つを奪われたら、一日は単純に二倍になる。

「僕はまだここに来て二週間だけど、もう何か月もいるような気がしてるもんね。涼なんかはさ……」

 言いかけて文ちゃんは涼の方をうかがい見た。そして特に反応がないことを確認すると、言葉を続けた。

「涼なんかはもう九か月だからね。本当に……長いよね」

 九か月。

 信じられなかった。九か月だ。

 九か月もの長い間、食べもせず、眠りもせず、いつ生還できるとも知れず、ただ石を集め続けているのだ。きっと自分より後から森へやって来た人が先に生還していく様を、幾度となく見送ってきたのだろう。どうして自分は生還できないのかと、やり場のない思いを抱き続けてきただろう。

 他人事だと思えるはずがなかった。似た状況に打ちのめされ絶望していた自分を、思わず目の前の男に重ねてしまいそうになる。

 その時、「あ、広樹おかえり!早かったね」と文ちゃんが声を上げた。「すぐ近くにいたんだよ」と広樹が返す。広樹はスーツ姿の男性を一人伴っていた。男性は頭に白い鉢巻を巻かれ、怯えたように体をすくませている。

「じゃ、椎ちゃん。話はこのあたりにしよっか。これから是非実際に村に行ってみてよ」

 文ちゃんにそう言われ、椎奈は立ち上がって膝のコートを腕にかけた。足が少ししびれていて、よろめきながらスーツ姿の男性に場所を譲る。

 広樹と涼が軽く目配せし、広樹が「じゃあ、行こうか」と椎奈に声をかけてきた。涼はこの場に残り、広樹が椎奈を村まで案内するという意味だろう。

 おとなしくついていこうとすると、「あ!待って、椎ちゃん!」と文ちゃんから声がかかった。

「大事なことを聞き忘れてた。椎ちゃん、事故に遭ったのって、何月何日?」

 今日の日付のことだろうかと、「十二月六日だよ」と答える。

「やっぱりね」

 文ちゃんは何がそんなに嬉しいのか満足そうな顔でそう言うと、じゃあ後でね、と広樹と椎奈に手を振った。

 歩き出して一度だけ岩の方を振り向くと、こちらを見ていた涼がふっと視線を逸らすのが目に入った。

  

 

 

 

 

つづき

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