*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

12

「そういうこともあってさ、いつも新人さんには、ここで元の世界の情報提供に協力してもらってるんだ。みんな気になってるんだよ、元の世界で今何が起きているのかって。だから勿論、情報提供には村から謝礼を支払うよ。朱雀の椎ちゃんには赤い石を一つ。軽症者はこの情報提供の対価だけで生還しちゃうこともあるんだ。椎ちゃんはトラック事故だからちょっと厳しいかもしれないけれど、どうかな。協力してもらえないかな」

 協力することには何の問題もなかった。

 けれど石を支払うという申し出には、体が拒否反応を示した。

――石を飲み込めば生還してしまうかもしれない。

 トラック事故とはいえ、打ち所がよければ軽症ということもありえる。石一つで生還してしまわないとは言い切れない。

 さっきは自分に必要な石が多いのではないかと考え、まわりから取り残される不安に怯えた。しかしよく考えれば生還するということは、あの日々に戻るということなのだ。

 あの、死を待つ日々に。

――生還なんてしたくない。

 この森が石のために人を殺す輩もいる恐ろしい場所だということはわかっている。それでも生還することも嫌だった。あんな日々に戻るのはもう嫌なのだ。

 赤い石なんて欲しくない。

 その時、ふと思いついて言った。

「協力することは構わないけど、謝礼は青い石で欲しい。涼さんに助けてもらったお礼がしたいから」

 気だるそうに肘をついていた涼が、顔を上げて椎奈を見た。

 美しい眉がわずかにひそめられる。

 椎奈はすぐに自分の発言を後悔した。

 今の発言はずるかった。だってもし椎奈が生還を望んでいれば、涼に礼として石を渡すなどと言い出さなかったはずだ。思いつきもしなかったかもしれない。それなのに、赤い石を得たくないばかりに涼への感謝の気持ちを利用した。

 後ろめたくて思わずうつむき、手元のコートをぎゅっと握りしめた。

 すると文ちゃんは意外にも、「ごめん、それはできないや」とあっさり椎奈の申し出を却下した。

「この謝礼は村の共有財産から支払われているんだけど、それも無限にあるわけじゃない。だから村のルールで、共有財産から支払われる石は必ず生還につながる色、つまり額の色と同じ色でないといけないことになっているんだよ」

 限られた共有財産の石が生還以外の目的に使われることを避けるためのルールなのだろう。確かにこのルールがなければ本当に必要な人のところに石が回らなくなってしまう可能性が出てくる。

「それにさ、涼はこれが仕事なんだ。椎ちゃんみたいな新人さんを保護することで村から給料をもらっている。だからお礼なんて考えずに、今は少しでも自分のために赤い石を集めな。ね、涼」

 話を振られ、涼は「ああ」と小さく答えた。椎奈は自分の浅ましさと考えの至らなさに押しつぶされそうで、そちらを見ることができなかった。

 その後、椎奈はここ数日の覚えているニュースを話した。文ちゃんは、ノートを無駄遣いしないようにとの配慮なのか、小さな文字で丁寧にメモを取った。これまでしゃべり続けていた文ちゃんは、意外なほど聞き上手でもあった。涼は相変わらず黙って座っていたが、時々椎奈に視線を向けてきたため何度か目が合った。

 ひとしきりしゃべり終えると、文ちゃんは赤い石を手渡してきた。村の共有財産の一部を預かって来ているという。一分以内の飲み込まないと大切な石が消えてしまうという焦りから、椎奈は生還したらどうしよう、とか、こんなに大きな石を飲みこめるのだろうか、と不安に思う余裕もなく、受け取ってすぐに口に放り込んだ。

 石は舌に乗ったか乗らないかのうちに空気のように溶けて消えた。反射的に飲み下そうとして、唾液だけが喉を滑り落ちた。

 本当に取り込めたのだろうかと、右の袖口をめくってみた。しかしそこには何もなかった。慌てて口元に手をやり、ふと気づいて左の袖口をめくった。

 そこには赤い石が埋まっていた。

 ガーネットを思わせる美しい赤い石。

 椎奈は生還しなかった。

 ほっと息をついた時、椎奈はふと頬に風を感じた。途端、涼がぴくりと反応して体を起こす。その視線の先では広樹がすでに立ち上がっていた。

「俺が行くから。涼は休んでろ」

 そう言うと広樹は駆け出した。涼は起こした体をまた岩に預けた。

「椎ちゃん、気づいてる?この森にほとんど風が吹かないこと」

 状況が飲み込めない椎奈に、文ちゃんが尋ねた。

 言われてみればそうだ。目が覚めた時にも違和感を抱いた。普通であれば森に満ちているはずの、葉ずれの音が全くしない。今も風を感じたのは一瞬で、森は再び不自然なほどの静けさに包まれていた。

「この森にはね、基本的に風が吹かない。唯一吹くのは『森に新人がやってきた時』だけなんだよ。だから風を合図に涼や広樹はその人を探しに行くんだ」

 椎奈は思わず涼を見た。

 椎奈が目を覚ました時、確かに風が髪を揺らした気配がした。涼はあの風を感じ取って椎奈を探しに来てくれたのだ。だから……あの三人組に殺されずに済んだのだ。

 たとえそれが仕事だと言われようと、対価として石を受け取っていようと、それでも椎奈は胸が熱くなった。

 椎奈の視線に気づいた涼がちらりとこちらを見て、すぐに視線を逸らした。なぜか少し申し訳なさそうに眉を下げていた。

 

 

 

 

 

つづき

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