*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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 木に登り、ひたすら枝を折って下に落とした。力仕事は得意だ。単純作業は向いていたのか、すぐに無心になった。腕が少し疲れてきた頃、厚い層の一部が完全に空に突き抜け、光が差し込んだ。嬉しくなって疲れを忘れ、どんどん枝を折って穴を広げた。

 さすがに息が切れて一旦下に降りて休んでいると「あなた見てると、ティッシュを全部箱から出しちゃう赤ちゃんを思い出すわ」と母親くらいの年の女に言われた。バカにしているのかと思い「うるせえ」と吐き捨てると、女は少しもひるんだ様子なく、細く裂いた布を編んで長い紐状にしたものを差し出してきた。「危ないから、命綱に使って」と言われたが「いらねえ」と払いのけた。けれどすぐに、手が届かない位置の枝を折るのに使えそうだと思い直し「やっぱりよこせ」と言って奪い取った。女は笑っていた。女が作った紐はとても役立った。穴は一気に大きくなった。

 無心でなにかをするのは気持ちがよかった。穴が目に見えて広がることで、達成感がこみ上げた。

 再び木を降りて仰向けになって休んだ。息がすっかり上がっていた。見上げると、ちょうどそこは自分で開けた穴の真下だった。光がまっすぐに降り注いでいた。

 光なんか見たり浴びたりするのは一体どれだけぶりだろうか。目を閉じて、それでも感じる光を楽しむ。そして気づいた。目を閉じるのも一体どれだけぶりだろう。

 ふいに涙が溢れた。

 何かに夢中になる。達成感を味わう。光を浴びる。目を閉じる。どれも元の世界では当たり前にやっていたことなのに、それが今はこんなにも嬉しい。

 そして何より嬉しかったのが人に優しくされたことだった。雄一郎が怖がらずに話しかけてくれた。蒲田さんがあたたかく迎え入れてくれ、信頼して仕事を任せてくれた。ひどい言葉を投げつけたのに、女が心配してくれた。

 声を上げて泣きたかったが、人目があるので必死にこらえた。腕で目を覆っていると、ガキが一人腹に乗って来て「さむらい、しごとさぼるな」と言ってきた。つかまえて一気に抱き起し、上に放り投げたら泣いた。おかしくて笑った。顔の筋肉が笑い方を覚えていたことが不思議なくらい、久しぶりに笑った。

 涼は蒲田さんの仕事を積極的に手伝うようになった。村のために自分ができることは何でもやろうと思うようになっていた。

 雄一郎の頑張りもあって村には徐々に人が集まり始めた。そしてついに村の中を石が回り出した。まずはみんなから生還に必要のない色の石を全て提供してもらい、それを仕事に対する給料の元手や、村に必要なものを買い取るための共有財産とした。村で生還者や死亡者が出ると、彼らが残した石は共有財産となった。

 村の共有財産から支払われた石で生還者が出、彼らが残した石がまた共有財産になり、やがて誰かを生還させる。これが玄武の蒲田さんが目指した石を回すシステムだった。

 涼の給料も支払われ始めた。本来給料は一日に石一つの約束だった。しかしその一日を知る方法が難しい。新しく森にやって来た人に元の世界の日付を聞く方法で時の流れを把握していたが、毎日そのような人に都合よく遭遇できることはなかなかなく、気がついたら三日経っていたなんてことはざらだった。

 給料を保証することは、村という存在が信頼を得るためには大切なことだった。そこで涼は、新しく森へやってきた人を保護するという仕事をすることになった。実際、森へ来たばかりの人は襲われやすい。それを助けて村へ勧誘することは、村へ利益をもたらすだけでなく人として大切なことだと涼には思えた。過去に自分がやってしまったことへの償いの気持ちも強かった。

 森に人がやってくると風が吹く。風が吹いた時に森へ出ることは、涼と雄一郎にとって最優先事項となった。

 やがて一日を把握することが容易になり、一日に一度、朝会を開催することになった。石のやりとりは基本的に朝会で行った。そのほか情報の共有や村の重要事項の決定のために朝会はとても重要な場となったが、涼にとって何よりも嬉しかったのが、暮らしにメリハリがつくことだった。ただ漫然と時が流れるのは本当に苦痛だった。自分はもう何年も森にいるような錯覚すら覚えていた。実際にはこの時、涼が森に来てから七か月が経とうとしていた。

 ある日衝撃の事実が発覚した。「玄武の蒲田さん」は玄武ではなかった。鉢巻のせいで誰も気づかなかったが、蒲田さんの額の石の本当の色は金だった。蒲田さんは最初に出会った人に額の石は緑色だと教えられたという。今となってはその人がなぜそんな嘘をついたのかはわからないが、そのせいで蒲田さんは無為に緑の石を集め続けてきたことになる。涼であれば発狂しそうな事実に対しても、蒲田さんは「道理でなかなか生還しないと思っていたんだよね」とあっけらかんとしていた。

 村の共有財産には、黄龍石が二つあった。涼が村にやって来る前に手に入れていたものだ。全員の賛同を得て、蒲田さんはその石を飲み込み、生還していった。

 なんという運命のいたずらだろうかと思った。蒲田さんが自分を玄武だと勘違いしていなければ、村はできなかったかもしれない。

 蒲田さんがその基礎を作った村を何としても守っていこうと涼は決めた。気持ちは雄一郎も同じだった。村は涼に人間らしさを取り戻してくれた。やりがいのある仕事を与え、時間の感覚を作り、再び石を集める気力をくれた。

 明るくて誰にでも分け隔てなく優しい雄一郎がアメ、無愛想で言いたいことはズバズバ言える自分がムチとなり、村を守っていこうと二人で誓った。

 涼にとって雄一郎は、村の為に働く同士であり、村ができる前の殺伐とした森を知る戦友であり、そして長く生還できず膨大な石を抱える苦しみを分かち合える大切な友人だった。

 

 

 

 

 

つづき

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