*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

28

 最初は自分の笑い声で葉が揺れているのだと思った。そんなはずないのに本気でそう思った。けれどすぐに風が吹いているのだと気づいた。

 笑い声をおさめ、風の方向を見定めた。それは体に刷り込まれた行動だった。これまで幾度となく新人を探し、風が新人を中心に四方に吹くことを知っていた。風上に、新人がいる。体を起こしてその方向を見やった。駆け出そうとしてふと足を止める。

 行ってどうする。村に連れて行って、明日の朝会でまた給料をもらうのか。その光景を思い浮かべて、ぞっとした。

 石を飲む時にいつも自分の周りを囲む青龍たちは、本当は自分が死ぬことを望んでいるんじゃないだろうか。自分が死ねば、膨大な量の青い石が残る。それを分け合って生還したいと思っているんじゃないだろうか。そう考えたら恐ろしかった。とてもじゃないが村に戻る気になんてなれなかった。

 再び地面に倒れ込んだ。これまでに何度も見たはずなのに、見上げる森の木々はまるで見覚えのないものに見えた。

 子どもの頃、ロケットから宇宙に投げ出されたらどこまで飛んでいくのだろうかと想像して恐ろしくて眠れなくなったことがあった。意識があるまま永遠に飛ばされ続けるのなら死んだ方がましではないかと思った。この森も同じじゃないか。いつまでも抜け出せないのなら死んだ方がましなんじゃないだろうか。

 涼はのろのろと立ち上がった。

 それはもちろん立ち直ったからではなかった。

 どうせ一人では死ねない。だからと言って梟に殺されて石を奪われるのは癪だ。それにこんな自分勝手な理由で新人を見捨てるわけにはいかない。とにかく新人を保護して、文ちゃんの元へは連れて行こう。そしてきちんと村に石を託せる手はずを整えて、誰かに殺してもらおう。そう決めて、涼はようやく走り出した。

 風上に目当ての姿はなかった。風が吹いてから少し時間が経っている。移動したのかもしれない。梟に見つかったのではないかと気持ちばかりが急いて、闇雲にあたりを走った。

 ようやく見つけた時には、三人の男が女を押さえつけていた。頭に一気に血が上った。この下衆野郎どもをブッ飛ばすまでは死ぬわけにはいかない。涼は急いで鉢巻を結んで駆け出した。

 女に馬乗りになっていた男に膝蹴りを食らわせた後のことは、ほとんど覚えていない。気づいたら三人が逃げて行くところで、なぜか頭や手の甲に鈍い痛みが残っていた。

 振り返ると、女が震えながら泣いていた。当たり前だ。何もわからず森に投げ出され、男三人に襲われたのだ。 

 大丈夫か、と声をかけると、女は小さくうなずいた。

 女の正面にかがみこんだ時だった。

「あなたは……大丈夫ですか?」

 女が言った。

 なんでそんなことを訊くのかと混乱した。女は一体何を心配しているのかと。

 そして次の瞬間、涼は女が全てを知っていると錯覚した。いつまでも生還できない苦しみも、多くの人を手にかけてきた後悔も、たった今味わった深い喪失感も、何もかもを知って、大丈夫かと問いかけてくれたのだと錯覚した。

――そんなわけない。

 頭のどこかでそうわかっていても、どうしようもなく救われた。「大丈夫?」と顔をのぞきこまれただけで、ひび割れてバラバラに砕け散りそうになっていた心が、いともたやすく元の形を取り戻した。この時の涼はまるで、「辛かったね」と一言母親に声をかけられただけで、泣き出してしまう子どもと同じだった。 

 女は自分を見つめながら、はらはらととめどなく涙をこぼしていた。その涙は、もし自分がすぐに助けに来ていれば流れるはずのなかった涙だ。

 遅くなって悪かったと謝った。もっと早く来てやればよかったと心の底から後悔した。悪かったと、繰り返さずにはいられなかった。

 女は涙を拭うと、笑った。泣きたくなるくらい、ほっとした。

 女を見る度に心が揺さぶられた。目が合えば逸らせなくて、長い間ため込んできた感情を吐き出してしまいたくなった。何かにつけてこちらに視線を寄越し、涼のために青い石が欲しいと言った女。そんな女のことが気になって仕方がなくて、涼も目をやらずにはいられなかった。

 誰かに心を寄せてまた裏切られたら、今度こそもう立ち直れないかもしれない。それでも体は勝手に女を支えにして、再び生還への道を歩み始めていた。結局涼は村に戻り、青龍に囲まれて給料を受け取ったのだ。

 あの時死を望んだ気持ちはたしかに本物だったのに、凝りもせず涼は再び生きようとしていた。

 いつ終わるとも知れない道の向こうには、一度目を逸らしたら見失ってしまいそうなほどの小さな光がたしかに存在していた。その光が消えてなくならない限り、結局自分は歩き続けることをやめられはしないのだと思った。

 一度は見失いかけた光を再び示してくれたのは、時折自分を不安そうな目で見上げてくる、額に赤い石を持つ女。その存在はまるで、道の先にある光そのものにさえ思えてならなかった。

 

 

 

 

 

つづき

目次