*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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 椎奈が微笑み返した時、村の中心部から「おー」という歓声が上がった。それをしおに「じゃ、村の警備があるから。またね」と雄一郎と大河が仲良く去って行く。大河は一度振り返ると、「鉢巻楽しみにしてまーす!」と大きく手を振ってきた。元気な子だ。

 歓声の上がった方を見ると、何人かの男が木に登っていた。その中にずば抜けて木登りがうまい男がいた。涼だ。歓声は涼に向けられたものらしく、侍はやすやすと高い木に登り、次々に枝を折っては下に落としていた。文ちゃんが言っていた枝払いだろう。

 椎奈はしばらくその様子を見つめていたが、やがてある場所へ向かった。村に来た時からあたりをつけていた場所だ。村の端に衣類が小さな山を作っているところがあった。可能ならばそこでタイトスカートをパンツスタイルに履き替えたいと思っていた。

 村での暮らしは地面に直接座る機会が多そうだった。朝会の時もタイトスカートは具合が悪くて仕方がなかった。

 衣類の山の脇に四十代くらいの男性がいた。スカートとパンツを交換したいと声をかけると、男はすぐに衣類の山の中から何本か見繕ってくれた。

 ここに積まれている衣類は遺留品として残ったもののほかに、新人の不要な衣類、巡回の際に森で拾ったものなどがあるらしい。今は元の世界が冬なので新人からの衣類の提供がとても多いのだという。暖かくも寒くもないこの森では冬の衣類はかさばるだけだ。何より、不要な衣類は石と交換できる。

 椎奈はジーンズを一本選び、村の外れの茂みでスカートから履き替えた。幸いサイズはちょうどよかった。男性の元に戻って脱ぎたてのスカートを渡し、今度はコートを売りたいと申し出た。通常ならば衣類一点につき石一つと交換らしいが、椎奈は新人ということで石二つと交換してもらえることになった。衣類を管理している男性は声が大きく人馴れしていて、元の世界で何か商売をやっていたことを感じさせた。

「じゃあ赤い石二つ、陣さんに預けておくから明日の朝会で受け取ってな」

 男性の言葉に椎奈は慌てた。別の色の石をもらうこともできると思っていたからだ。けれどたしかに衣類と交換される石の出所は村の共有財産だ。椎奈は赤い石しか受け取れない。

 赤い石は嫌だと思った時、ふと大切なことを思い出した。鉢巻の材料を用意しなくてはならない。

「石はいらないので、代わりに衣類を二点ください」

 男性は不思議そうな顔をしたが、すぐに承諾してくれた。許可をもらって衣類の山を自ら物色し、鉢巻の土台になりそうなシンプルな濃茶のロングスカートと、アクセントとなる飾りを作れそうなカラフルなセーターを選んだ。

 衣類を抱えて鉢巻製作の拠点をどこにしようか村を見回していると、後ろから「お嬢さん」と声がかかった。振り返ると、石を預かる仕事をしているという黄龍の陣さんだった。

「初めまして。大野椎奈です。よろしくお願いします」

 頭を下げる。

「そうだそうだ、椎奈さんだ。年を取るとなかなか名前が覚えられなくてね。朝会の時に聞いたんだけど、忘れてしまって申し訳なかった。私は陣です。よろしく」

 差し出された腕にはいくつかしみが浮かんでいて、他にたくさんの四色の石と、琥珀色の石が五つ見えた。手に入りにくいとされる黄龍石を五つも持っているなんて、一体どれほど長くこの森にいるのだろうか。

 陣さんの髪は黒い部分が一割ほどしか残っていなかった。綺麗に切り揃えられたその髪型を見た時、ふと違和感を覚えた。なんだろう。何かひっかかる。

 すると突然、女性の悲鳴と男性の叫び声が同時に上がった。驚いて弾かれたように声の方を見る。遠くの木の根元に人垣ができていた。別の木に登っていた男たちが慌ただしく下りてくる。涼がかなり高い位置から一気に地面に飛び降りて、人垣をかき分けた。

「落ちたな」

 陣さんが言う。

「落ちた?木からですか?」

「ああ。時々あるんだよ。でも心配いらない」

 そういえば木に登っている男たちは命綱などつけない状態でかなり高いところまで登っていた。そこから落ちたというのに陣さんの反応は冷たいともいえるほど飄々としている。

「この森では、額の石に触れられない限り死なないし、怪我をしてもすぐに治る。ま、痛みは感じるからしばらく辛いだろうが、そのうちケロッと治るよ」

「そうなんですか?」

 驚いた。そんなことってあるんだろうか。

 その時ふと、文ちゃんが言っていたという言葉を思い出した。

『森は常に元の姿に戻ろうとしている』

 同時に、陣さんに対して抱いていた違和感の正体もわかった。

「怪我がすぐに治るってことは、もしかして髪も髭も伸びないんじゃないですか?」

「鋭いね、椎奈さん。そうだよ。この森では髪も髭も爪も伸びない」

 やはりそうだ。この森では人すらも元の姿を保とうとするのだ。だからおなかもすかない。眠くもならない。怪我も治るんじゃない。元に戻っているのだ。不自然に感じた陣さんの散髪に行きたてのような髪も、この森では自然なことなのだ。

「椎奈さんは目のつけ所がいいね。私がそのことに気づいたのは、この森に来てから随分時間が経ってからだったよ」

 目を細めて笑う陣さんに、傍らから誰かが話しかけてきた。石を預けに来たのだと言う。まだ朝会が終わって間もないが、早速村の中を石が移動しているようだ。陣さんは椎奈に目配せすると、高志を呼んだ。椎奈は軽く会釈をし、その場を去った。

 

  

 

 

 

つづき

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