*長編小説* 森の記憶

いつか失われる記憶の中で愛し合い、求め合い、精一杯生きる人たちの物語

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 森の巡回にも慣れてきたある日、不思議な出来事が起きた。

 風が吹いて、おむつ姿の赤ん坊を見つけた時のことだ。赤ん坊の額には、その目よりもうんと大きな赤い石が光っていた。俺は正直なところ、こんなに小さな子を見たのは物心ついてから初めてで、動揺して数歩手前から一歩も動けなかった。雄一郎さんは赤ん坊に近づくと軽々抱き上げて、よしよしと揺さぶった。赤ん坊は「おー」と声を上げて、雄一郎さんの鼻をもみじみたいな手で叩いた。雄一郎さんは嬉しそうに笑うと、腕から赤い石を取り出し、赤ん坊の口に入れ始めた。何をしているのかと眺めていると、五個入れたところで赤ん坊は消え、おむつがぽとんと地面に落ちた。

「今……何したんすか」

 俺が問いかけると、雄一郎さんは小さく笑った。

「子どもは石が揃う前に死んでしまうことが多いだろ。だからさっさと生還させてやろうと思って」

「何言ってるんすか! 村の大事な共有財産をそんなふうに使ったらまずいっしょ!」

「今のは俺の石だから大丈夫だよ」

「いや、でも! 雄一郎さんの石だからってロハであげるなんて!」

「ロハってなに?」

「あ、ただで、って意味っす。只って漢字は片仮名のロとハでできてるからロハって……ってそうじゃなくて! もったいないじゃないっすか! ただであげちゃったら!」

「いいのいいの。俺、森に長くいるから、石はいっぱい持ってんだ。これで子どもが生還できるなら安いもんだよ」

 なんて優しい人なんだ、とうっとりしかけて、俺は頭を振った。

 いや、そうじゃない。本当に問いただすべきはそんなことじゃなくて……

 俺は混乱していた。今の出来事は、絶対に何かが変だ。けれどそれをうまく言葉にできなかった。ただもやもやと、何かがおかしいという感情だけが胸の中をうずまいていた。

 それから何日かして、またおかしなことが起こった。

 森で玄武の女性と出くわした。彼女は緑の石をいくつかと白い石を三つ持っていて、その白い石と緑の石を交換してくれないかと持ちかけてきた。俺は当然断るだろうと思った。白い石なんか受け取れるはずがない。それなのに雄一郎さんは承諾した。呆気にとられる俺の目の前で、雄一郎さんは女性に緑の石を三つ手渡した。女性はその石で生還し、地面に白い石が三つ残った。

「どうするんすか! この石!」

 俺が叫ぶと、雄一郎さんは淡々と石を拾い上げた。そして、

「あーん」

と言って、あろうことかその石を俺の口の前に差し出してきた。

 俺は咄嗟に唇を内側に巻き込み、歯で強く噛んだ。

 絶対にこんな場所で白い石なんか飲み込みたくない。俺は朝会で、みんなに拍手で送り出されて生還したいのだ。

「大河、口開けて」

 俺がいやいやをするように小刻みに顔を振りながら後ずさると、雄一郎さんは「ほら、急がないと石が消えちゃうよ」と言って、いきなり俺の鼻をつまんだ。息苦しくなって思わず口が開く。次の瞬間、石が飛び込んできた。

 あ、と思った時にはもう遅かった。石は舌の上で消えていた。

「何するんすか!」

 俺はバカみたいに手足をばたつかせて叫んだ。

「生還しちゃったらどうするんすか!」

「はははっ、大丈夫大丈夫」

 雄一郎さんは大きな口を開けて笑った。

 俺はわけがわからなかった。何が大丈夫だ。なんでこんなことをするんだ。雄一郎さんは気が狂ってしまったんじゃないかと思った。

 もう二度としないからとなだめられて、俺は渋々雄一郎さんを許した。けれど胸の中には、あの赤ん坊を生還させた時と同じ、もやもやとした感情がうずまいていた。

 やがてそのもやもやが、はっきりとした形になる出来事が起きた。 

 巡回中に、五歳くらいの青龍の女の子を見つけた時のことだ。その子は顔を真っ赤にして泣き叫んでいて、まともに話ができる状態じゃなかった。閉口する俺の前で、雄一郎さんは特に慌てる様子もなく女の子の前にかがみこむと、胸から青い石を四個取り出して、まとめて大きな口の中に放り込んだ。

 え、と思う暇もなく、女の子は霧のように消えた。

 なんだ今のは。俺は目を疑った。

 どうして四個放り込んだんだ。

 どうして一気に飲ませたんだ。

 その時、俺のもやもやが確信に変わった。

「雄一郎さん……もしかして、生還に必要な石の数がわかるんすか」

 雄一郎さんは目を見開いて俺の顔を凝視した。その表情は、俺の仮説が正しいのだと示しているように見えた。

 しかし次の瞬間、森に高らかな笑い声が響いた。

「大河、何言ってんの。そんなことあるわけないだろ」

 雄一郎さんはおなかを抱えて笑っていた。

 俺は一気に顔が赤くなった。自分がひどく恥ずかしいことを言ってしまったような気がした。もしかしてサンタクロースって本当にいるんすか? 何言ってんの、そんなわけないだろ。まるでそんなやりとりをしたみたいなばつの悪さがこみ上げて、自分の発言をすぐさま後悔した。

 たしかに生還に必要な石の数がわかるなんて話、聞いたことがない。しかももし雄一郎さんがそんな力を持っていたとしたら、とっくに俺にその数を教えてくれているだろう。

 でも今までに起きたおかしな出来事は、その力で説明がつくと思ったのだ。赤ん坊の時もそう。赤ん坊に必要な石の数がものすごく多いかもしれないのに、あんなふうに石を飲ませたりするだろうか。俺に白い石を飲ませたこともそう。俺がその石では生還しないとわかっていたから、何の躊躇もなく飲ませたんじゃないだろうか。今の青龍の女の子に至っては怪しすぎる。どうして四個一気に放り込んだんだ。一個で生還できたかもしれないのに、一気に飲ませる必要はなかった。危うく石を無駄にしてしまうところだ。

 だから、自分の思い付きには自信があったのに。

 けれど雄一郎さんはそんな俺の仮説を笑い飛ばした。やっぱりそんなことあるはずがないのだ。あの文ちゃんも必要な石の数は誰にもわからないと言っていたじゃないか。そんな神様みたいな力、あるわけがない。

「そうっすよね……」

 俺は力なくうなだれた。

 

 

 

 

つづき

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